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(歴史小話) 国境を越えて1~エルトゥール号事件と山田寅次朗~

エルトゥール号

1889年(明治22年)7月15日。オスマントルコ帝国イスタンブール港を一隻の軍艦が出航しようとしていた。2年前に日本から皇族の訪問を受けたその返礼として、時の皇帝アブドゥル・ハミト二世は、オスマン・パシャ海軍少将を全権特使として使節団を結成して日本へ向かわせた。この時、バシャ少将を乗せたのが軍艦エルトゥール号だった。

エルトゥール号は総排水量2344トン、全長は約46メートル、機関は600馬力の木造巡洋艦だった。この老朽艦が、後のバルチック艦隊とほぼ同様のコースを辿って日本までの長征についた。ただバルチック艦隊との違いは、当時イギリスが支配していた紅海のスエズ運河を通過したことだ。(バルチック艦隊の一部もスエズ運河を通過しているが、本隊ははるかアフリカの喜望峰を回った)

エルトゥール号は、旅の途中で故障しながらもインド、シンガポール、仏領インドシナ(現ベトナム)、香港、中国を経て、1890年6月7日についに横浜港へ辿りついた。使節団は、大日本帝国の明治天皇に謁見し日本各地で大歓迎を受けた。

嵐の中の出港

9月14日。使節団は一連の予定を終えて帰国の途につこうとしていた。しかし日本政府は9月は台風の季節であり、エルトゥールル号が老朽化していることから出航を延期することをすすめた。だが、一行は日本政府の勧めを丁重に断り、出港した。横浜から紀伊半島を通って神戸港へ向かうエルトゥール号。その時、嵐が近づいていた。

遭難と大島村民

紀伊半島熊野灘樫野埼付近。エルトゥール号は台風の直撃を受けて座礁した。船底から浸水、蒸気機関が爆発して炎上、ついには海の藻屑と消えていった。この遭難で、オスマン・パジャ少将以下650名が海に投げ出された。 士官ハイダール以下69名は、艦の破片にすがって約3時間ほど漂流、樫野崎灯台下の砂浜にはい上がり、助けを求めた。

大島村樫野区民高野友吉は、海の上からの爆発音を聞き、灯台看守に知らせるために灯台に向かっていた。当時はまだ、江戸時代から続く風潮で、異国船の進入に過敏になっていたのだろう。彼は見たこともない異国人が弱りながら歩いている姿を目撃した。彼はあり合わせの着物をその異国人に着せ、傷の治療をしながら夜明けを待った。そして区民に通報して、互いに助け合って丁重に介抱し、夜明けを待った。

夜が明けた。彼は大島村長沖周、古座分署長小林従二に報告したところ、村民達も急を聞き応援に駆けつけた。沖村長は県庁に緊急打電し、樫野、須江両区長と協力し、生存者を急造の担架で大島区の蓮生寺に送った。蓮生寺では村医が遭難者の治療を担当した。

大島村民は各戸に蓄えているわずかな食料を傷ついた将兵達に与えた。だが彼らは貧しい漁民。自らの食べ物さえ事欠いている有様だった。乏しい食料は一夜にして底をついてしまった。そこで、彼らは、非常用に飼っていた鶏などの動物を将兵達に提供することを決意する。蓄えている食料すべてを提供した。

その後捜索が行われ、発見された他の遭難者の遺体はハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬した。

村民達の清貧

この話は当時の和歌山県知事から明治帝に上奏された。そして遭難者たちは、明治天皇の命により日本海軍の戦艦2隻で無事トルコに送り届けられた。オスマン・トルコ帝国は、献身的な介護をしてくれた大島村民たちに対し、3000円(現在の約6000万円相当)を贈った。沖村長はこれを銀行に預け入れ、その利息を村のために使った。彼が私腹を肥やすことは無かった。日本政府もまた、大島村民を大いに褒め、彼らに救助に要した費用を補償することを申し出た。だが、村民達はこれを丁重に断り、こう言った。

「今回の事故で多くの方々が亡くなった。どうかその方々のための義捐金に使ってください。」

彼らの気高い精神とその行いは、後に「エルトゥール号事件」として広く世に知られ、日本中に大きな感動と衝撃を与えた。そして一人の若者の心を動かす。その若者の名を、山田寅次朗といった。


山田寅次朗、立つ

山田寅次郎は、旧沼田藩の家老の子である。彼が24歳の時に新聞で目にしたエルトゥール号事件と大島村民の行動は、彼を熱くした。そして全国を練り歩いて演説会を開催し、1年で約5000円(現在の約1億円)の寄付金を集めた。彼は時の外務大臣青木周蔵を訪ねて義捐金をトルコへ送金し、遺族の慰霊金に使って欲しいと願い出た。青木は、意外な返答をした。

「この大金は山田君が集めた天下の浄財であり、貴君自身がトルコへ届けに行って欲しい。」

青木は、山田をトルコ行きの手配をしてくれ、彼は単身イスタンブールへと旅立った。そして民間人としては異例の皇帝アブドゥル・ハミド二世に謁見することを許された。 山田は謁見の際に、山田家伝来の鎧兜と太刀を皇帝に献上した。そしてオスマン帝国の高官は、トルコの青年士官たちに日本語と日本の精神や文化について教えて欲しい、と依頼した。山田はそのままトルコに滞在することになり、士官学校のお雇い講師になった。彼は陸軍士官と海軍士官に日本語と日本の文化・精神論を教えた。教えを受けた士官の中には、後に近代トルコの父と呼ばれるケマル・アタチュルクもいた。

士官学校を辞めた後も彼はイスタンブールに滞在し、日本の工芸品を商う店を構えて日本とトルコの貿易の礎を築いた。その一方で山田は、日本とトルコの共通の敵であるロシアの諜報活動も行った。日露戦争の際には、単身ボスポラス海峡の丘の上に立ち、商船に偽装した敵艦隊出港の秘密電報を打ち、高い評価を受けている。

1914年(大正3年)に第1次世界大戦が開戦。トルコは日本の敵になってしまったため、山田は遂に日本へ帰国した。そして紙巻タバコの洋紙を製造する製紙会社を起した。1923年(大正12年)に山田寅次郎は家元を襲名、宗徧流第8世山田宗有(そうゆう)となった。

第1次世界大戦終結後の1924年、日本はトルコ共和国と正式に国交を結んだ。東京のトルコ大使館の開設に当たって、山田は援助を惜しまなかった。山田はこの年の秋に大阪日土貿易協会を設立して理事長の職に付き、エルトゥール号遭難の地の樫野の墓地に慰霊碑を建てるために尽力した。そして1931年(昭和6年)、山田は17年ぶりにトルコの大地を踏んだ。イスタンブルに滞在して、現地の財界から大歓迎を受けた。そしてケマル大統領にアンカラに招かれて面会した。この時、ケマル大統領は士官学校で山田が日本語を教えていた時、自分もその中のひとりとして日本語を教わったという思い出を語り、丁重な態度で山田に接した。

山田は第二次世界大戦も生き抜き、1957年(昭和32年)に91歳で亡くなった。 (つづく)

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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