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(物語) 真のワンチーム

2019年11月2日、新横浜の夜空に金色のカップが高く掲げられた。ラクビーワールドカップ日本大会。決勝を制したのは南アフリカ代表「スプリングボクス」。カップを掲げたのは同代表初の黒人主将シヤ・コリシ選手。その背には栄光の背番号6番を掲げていた。彼はアパルトヘイト政策時代に作られた黒人居留区で生まれ、ラクビーにその人生を捧げてきた。物語は30年以上前に遡る。

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日本がバブル景気に浮かれていた1980年代になっても、南アフリカ共和国は「アパルトヘイト」と呼ばれる人種隔離政策を続けていた。アメリカなどでは既に人種差別政策を廃止しており、南アフリカに対して厳しい経済制裁を課していた。1980年代後半になると黒人達による暴動が多発するようになる。時の大統領デクラーク大統領は大きな決断を下す。それは、アパルトヘイトに反対して27年間にも渡って投獄されていたネルソン・マンデラさんを釈放することだった。

ネルソン・マンデラさんは、1918年7月18日、南アフリカの東ケープ州の農村に生まれた。26歳の時に反アパルトヘイトを掲げるアフリカ民族会議(ANC)に入党、その後南アフリカ初の黒人の法律事務所を設立した。しかし、裁判は常に黒人に不利だった。ANCは当初話し合いを重視する路線だったが、政府による虐殺事件・暴力事件が相次いだ。そこでマンデラさんも闘争路線に変更、国家反逆罪で終身刑を宣告されてしまう。

1964年から1982年まで18年もの月日をケープタウン沖ロベン島にあるポルスモア刑務所で過ごした。劣悪な環境の中、マンデラさんは体を弱めてしまう。しかし、自由と平等を求める精神に揺るぎはなかった。マンデラさんの釈放後の1991年についにアパルトヘイトが廃止、1994年には南アフリカ初の普通選挙が実施されマンデラさんは初の黒人大統領に就任する。

第8代大統領となったマンデラさんが腐心したのが民族の融和だ。アパルトヘイトは白人・黒人間の溝を深くしたが、黒人間でも派閥間の争いなど様々な対立があった。こうした対立を収め、全人種を融和させることが重要な課題だった。マンデラさんが目につけたのが、翌年1995年に南アフリカでワールドカップが開催されることが決まっていたラクビーだった。

ラクビー南アフリカ代表の愛称を「スプリングボクス(Springboks)」という。「ボカ」の短いニックネームでも知られる。 アフリカ大陸を軽やかに駆け巡る動物スプリングボックに由来し、100年以上もの歴史を誇る。長年、南アフリカではラクビーは白人のスポーツとされており、黒人など他人種には不人気だった。スプリングボクスはほぼ白人の選手で占められており、アパルトヘイトの象徴とされていた。普通、自国の代表が国際大会で戦う場合、国民は自国代表を応援し、勝った場合には当然喜ぶ。しかし南アフリカの場合、非白人はスプリングボクスの相手チームを応援し、スプリングボクスが敗れた時に喜ぶといった有様だった。

そこでマンデラさんは、至る所でこう説いて回った。「スプリングボクスは白人の象徴だったが、これからは南アフリカの象徴だ。我々のチームを愛してほしい」。また、スプリングボクスの選手達とも面会した。多くの選手が警戒していた。ところがマンデラさんは、選手たちに優しくこう語りかけた。「君たちは我々の誇りだ。全国民が応援する。どうか南アフリカ代表として行動して欲しい」。チームのメンバーの意識が少しづつ変わり始める。それまでラクビーを忌み嫌っていた非白人の子供たちにラクビー教室を開催することもあった。

マンデラさんはこんなスローガンを掲げた。

「One Team One Country」
(一つのチーム、一つの国家)

白人と黒人、黒人と黒人。アパルトヘイトによって長く分断された国家。マンデラさんは、そんな国家が一つになるよう、その願いをスプリングボクスとラクビーに託したのだろう。

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1995年5月25日、第3回ラグビーワールドカップ。スプリングボクス初陣の対戦相手は、優勝候補の強豪オーストラリア代表「ワラビーズ」。ケープタウンにあるニューランドスタジアムには多くの観客が押し寄せていた。試合前の下馬評ではスプリングボクスの苦戦が予想されていた。しかし、試合が始まるやスプリングボクスは激しく攻め立てる。重厚なディフェンスに加え、敵の隙を突いてドロップゴールを確実に決めていく。スプリングボクスは27対18で初戦のオーストラリア戦に勝利した。

続くルーマニア戦は21対8で撃破、カナダ戦は20対0で完封。南アフリカ十か熱狂に包まれていく。選手もファンも新しい国歌を歌い、ファンは新しい国旗を振って応援した。準々決勝のサモア戦でも42対14の大差で勝利、準決勝のフランス戦は大接戦の好試合。19対15の僅差で勝利した。

1995年6月24日。ヨハネスブルクのエリスパークで行われた第3回ラグビーワールドカップ決勝戦。スプリングボクスの最後の相手はニュージーランド代表「オールブラックス」。試合前に選手全員が伝統儀式「ハカ」を踊ることで有名だ。ユニフォームはその名が示す通り全身真っ黒。この決勝戦の開始前、マンデラさんはスプリングボクスのユニフォームを着て会場を訪れ、両チームの選手一人一人に声をかけて激励した。その背中には主将フランソワ選手と同じ背番号6番が掲げられていた。また、試合直前にはスタジアムの上空すれすれを1機のジャンボジェットがかすめて飛んで行った。その機体の下には「Go Bokke’ 」と大きく書かれていた。こうして最後の決戦の火蓋が落とされた。

試合は決勝戦の名に相応しい激闘だった。オールブラックスが点数を決めるとスプリングボクスもすぐに追いつく。伝統的にオールブラックスは素早いパス回しで敵を翻弄し、力強いスクラムでデイフェンスも強い。これに対し、スプリングボクスは体をぶつけてオールブラックスのスピードを止め、力負けしないスクラムと、間隙を突いて確実なドロップゴールを決めていった。勝負は後半になってもつかず、ワールドカップ三回目にして初の決勝延長戦に突入した。そしてついにスプリングボクスがリード、15対12の接戦を制して初出場初優勝の快挙をなし遂げた。表彰式でマンデラさんは主将フランソワ選手に優勝カップを手渡した。二人の背番号は同じ6番。南アフリカ中がお祭り騒ぎになったという。

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2013年12月5日、マンデラさんはヨハネスブルグの自宅で95年の人生を終えた。27年もの間投獄されても決して揺がなかったその信念、敵を許す慈悲の心、寛容さ、そして優しさ。マンデラさんが掲げた「One Team One Country」のスローガンは、強い信念と願いを見事に表している。


Springboks unite a nation: RWC 1995 final
https://www.youtube.com/watch?v=9Wh4MPGp68A

Rugby World Cup rewind: RWC 1995
https://www.rugbyworldcup.com/news/90026

The National Anthem Of South Africa (Best Performance)
https://www.youtube.com/watch?v=Dtg_KtjrIV8

ラグビーを超えた出来事」、南アのレジェンドもW杯制覇に感無量
https://www.afpbb.com/articles/-/3252881

ラグビーと南アフリカ (南アフリカ共和国観光局)
http://south-africa.jp/meetsouthafrica_lists/552/

テーマ : ちょっといい話 - ジャンル : ブログ

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