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(物語) フラガール

石炭は長い間「黒いダイヤ」言われてきた。明治維新後、新政府は富国強兵・殖産興業を基本政策として日本の近代化を進めた。産業の隆盛のためにはエネルギーが不可欠である。この時代は石炭が主要なエネルギー源だった。新政府は全国で炭田開発を進めた。

福島県浜通り地方に広がる常磐炭田もその一つである。しかし、常磐炭田は地層上の特性から地下深く掘り進めていかねばならなず、採炭には危険が伴った。地下水や温泉も大量に湧き出し、排水作業に悩まされた。温泉が噴き出す坑内は高温で、過酷な作業を余儀なくされた。「一山一家」とは、こうした過酷な環境下における危険な作業を皆で力を合わせて取り込んでいくという精神を意味している。

常磐炭礦株式会社は、明治期に設立された磐城炭礦と入山炭礦が戦時中に合併してできた会社である。常磐炭田の採炭を一手に担ってきた。しかし、高度経済成長期に入ると石炭産業は斜陽産業になっていく。エネルギーの主役は石炭から石油へと代わろうとしていた。大きな時代の波が押し寄せてきていた。

副社長(当時)の中村豊さんは、会社の業態転換について真剣に悩んでいた。石炭の時代はやがて終わる。すでに会社は合理化を進めており、大量の首切りを余儀なくされていた。これ以上社員やその家族達を路頭に迷わせたくはない。中村さんは海外視察の旅に出た。しかし大きな収穫はなかった。旅の最後に立ち寄ったのがハワイ。そこで中村さんはたちまち島の美しさに魅了される。

何とかこのハワイを再現できないだろうか。これまで採炭の際に悩まされてきた大量の温泉を逆に使えないだろうか。中村さんの構想は膨らんでいく。しかし、日本に帰った中村さんの話を真剣に耳を傾けた人はごくわずかだったという。必死の説得を続け、ようやく計画が始動することになった。「常磐ハワイアンセンター」の設立計画である。

1965(昭和40)年4月、東京でダンサー努めていた早川和子さんを講師に迎え、福島県いわき市に常磐音楽舞踊学院が設立された。常磐ハワイアンセンターの華として、ハワイアンダンスとタヒチアンダンスショーの踊り子を養成するためだ。「フラガール」は、こうして産声を上げることになる。生徒達は、炭鉱で働く親の子だけではなくいわき市内で働く公務員や会社員の子も多かったという。早川さんは、この地方は元々舞踊に対して熱心で、理解がある人達が多かったと振り返っている。

12月、8カ月の訓練を終えた生徒達は全国キャラバンを始める。最初に公演を行ったのは東京の大手町。昼夜の公演で合計4000人もの観客が詰めかけたという。約1ヶ月の期間中、日本中の多くの街を廻った。手ごたえは上々だった。

翌1966(昭和41)年1月、常磐ハワイアンセンターがグランドオープンした。滑り出しは好調だったが、80年代に入ると海外旅行が自由化され、プラザ合意で日本円が強くなっていくと海外旅行客が増加していき、反対に常磐ハワイアンセンターの観光客数は減少していった。また、1985(昭和60)年に常磐炭鉱は完全に閉山、常磐炭礦株式会社は常磐興産株式会社と名称を変えた。

ハワイアンセンターへ行くなら本物のハワイへ行ったほうがいい、という声さえ聞こえてきた。そこで1990年(平成2年)、名称を「スパリゾートハワイアンズ」へ変更して温泉・プール等の新施設を増設するなど経営努力を重ねた。徐々に客足は戻っていき、2006(平成18)年に公開された映画「フラガール」で知名度は一気に高まり、観光客数は順調に増加していく。

「フラガール」ことスパリゾートハワイアンズダンシングチームの加藤由佳里さんは、地元いわき市の出身。27人のメンバーと新人を統率する現在のリーダーである。加藤さんはステージの上では「マルヒア由佳理」になる。

震災によって、スパリゾートハワイアンズの各施設も甚大な被害を受けていた。あの日、加藤さんは休日だった。震災発生後に各メンバーに携帯電話をかけたもののまったくつながらなかったという。会社になんとかつながったものの、当分の間営業休止としか伝えられなかった。

時間が経つにつれて事態の深刻さが分かってきた。大地震に加えて大津波が多くの街を襲ったこと、福島第一原発・第二原発の施設にも津波が押し寄せ、国家的な危機に陥っていること。福島第二原発は非常用バックアップシステムが稼動し、最悪の事態は免れたが、福島第一原発はバックアップシステムそのものがやられ、放射能が漏れ出していた。

スパリゾートハワイアンズがあるいわき湯本地区は、福島第一原発よりはるか南に位置している。しかし、政府・原子力保安院・東京電力は混乱を極めており、どの情報が正確で信じていいのか分からない状況が続いた。

状況がようやく落ち着いてきた3月下旬。スパリゾートハワイアンズを運営する常磐興産株式会社の斉藤一彦社長はある決断を下す。それは、46年ぶりに全国キャラバンを展開することだった。

4月22日。それまで自宅待機を余儀なくされていたダンシングチームのメンバー29人全員が常磐音楽舞踊学院に集まった。幸いにもメンバー全員は無事だったが、その家族や家が被害を受けたメンバーもいた。そして開校当時から指導を続ける早川さんの下、メンバーは踊りの動きを一つ一つ確認しながら練習を再開した。

4日後の26日、この常磐音楽舞踊学院から5人の卒業生が旅立ち、新しく6人が入学した。スパリゾートハワイアンズのホテルには、未だ多くの避難者が生活しており、各施設も営業は休止したままだった。しかし、斉藤社長をはじめ多くの関係者は、この困難に際しても未来を見据えて人材を育成することに余念がなかった。炭鉱が閉山した今でも「一山一家」の精神は脈々と受け継がれていた。

2011年5月3日、戸惑いと不安が交錯する中で全国キャラバンが始まった。最初の「舞台」は地元とともにありたいという願いから、被災者が集まる地元いわき市の中央台東小学校と県立平工業高校が選ばれた。ステージではなく、体育館の床の上で映画主題歌になった「フラガール~虹を~」などを踊った。観客から大きな拍手が起こった。
 
この全国きずなキャラバンでは実に様々な場所で公演を行った。東北各県の被災地、長野県北部大地震の被災地、全国各地の避難所、フジテレビ主催のお台場合衆国、映画の音楽を担当したジェイク・シマブクロさんのライブ会場、東京ドームで行われたプロ野球の巨人・中日戦、さらには日韓交流のイベントの一環として韓国・ソウルで踊ったこともある。公演した場所は合計125か所、公演回数は247回に及んだ。長距離の移動、真夏の過酷な暑さ、蓄積する疲労の中で、彼女達は懸命に笑顔で踊った。

キャラバンの最中でも練習は続く。優雅さだけではなく激しい踊りも要求される彼女達の練習は厳しい。そんな練習の中で、加藤さんは後輩のダンサー達にこう語りかけていく。「どんな時にも笑顔でね」


2011年10月1日。この日スパリゾートハワイアンズが部分的に営業を再開した。午前10時、長く閉ざされてきたスパリゾートハワイアンズのドアが開き、フラガール達が笑顔で迎えた。記念のテープカットには映画「フラガール」に出演した女優の蒼井優さんと南海キャンディーズの山崎静代さんも駆けつけた。

午後8時。 スパリゾートハワイアンズのステージでポリネシアンショーが復活した。会場には立ち見客を含め700人以上もの人がやってきた。「おかえりなさいフラガール」と書かれた横断幕まで用意してくれたファンもいた。ステージの上で「マルヒア」由佳理さんは「やっと帰ってくることができました」と挨拶した。約40分を予定していた復活公演は、2回のアンコールによって1時間を超えた。

そして翌10月2日、約180日間に渡って行ってきた全国きずなキャラバンが地元いわき市で行われた復興祭で最後の公演を迎えた。このイベントに参加したのはダンシングチーム全28名、男性ダンサー3名、音楽担当のフルメンバー。最終公演を終えた時、それまでこらえてきた涙を流すメンバーもいたという。

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2012年2月8日、スパリゾートハワイアンズは全施設が再開する予定だ。予断を許さない原発事故、それに伴う風評被害、日本経済の低迷、格安航空会社の参入による海外旅行の低価格化等、フラガール達を取り巻く環境は厳しい。

だが、彼女達はひるまず立ち向かっていくだろう。
一山一家の精神と最高の笑顔とともに。



スパリゾートハワイアンズ
http://www.hawaiians.co.jp/

スパリゾートハワイアンズ:放射能測定情報
http://www.hawaiians.co.jp/information/srh_report.html

スパリゾートハワイアンズ:公式ブログ
http://blog.livedoor.jp/hawaiians/archives/2011-10.html?p=4#20111004

スパリゾートハワイアンズ・ダンシングチーム「フラガール」に対する第6回太平洋・島サミット(PALM6)親善大使の委嘱(日本国外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/10/1019_05.html

テーマ : ちょっといい話 - ジャンル : ブログ

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