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(歴史小話) 吉田松陰、アメリカを目指す (後編)

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「吉田松陰、アメリカを目指す」(前編)の後編です。
http://hayamabeach.blog39.fc2.com/blog-entry-246.html

時は1852年。アメリカ東海岸にあるノーフォーク港をアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が乗艦する戦艦ミシシッピ号以下4隻の軍艦が出航した。フィルモア大統領の親書を携えた彼の任務は、鎖国の日本を開国させることだった。

ペリーの来航に関し、意外と知られていないが彼らの艦隊の辿ったルートである。今日の飛行機のように太平洋を横断して直接日本に来たのではない。何よりノーフォークは西海岸ではなく、東海岸の街である。まず大西洋を横断してスペイン領カナリア諸島へ、その後アフリカ大陸喜望峰を回ってモーリシャス、セイロン島、シンガポール、香港、上海、琉球を経由して日本の浦賀(現:神奈川県)にやってきたのだ。このルートは、後の1905年に日本海軍と決戦するロシアのバルチック艦隊と似ている。

「ペリー来航」と称されるこの事件の際、浦賀に出かけて衝撃を受けたのが吉田松陰である。彼は江戸幕府の国防政策に不信感を募らせ、危機感を覚える。そして強烈な好奇心が彼を包み込む。西洋の強国は万里の波濤を超えてはるばる日本へやってきた。ならば俺も行ってやろう。どんな国かこの目で見てやろう。日本を守るためには西洋の進んだ国を知らなければならない。そして多くの事を学びたい、と。吉田松陰は海外へ行く事を決意する。

ペリー来航からわずか一カ月後、今度はロシアのプチャーチンが長崎にやってきた。松陰はロシア船に乗り込むべく長崎に向かったが、彼が長崎に着いたときにはロシア艦隊は出航した後だった。そして1854年(嘉永7)年、再びあのペリーが日本にやってきた。この時、松陰と同じ長州藩の金子重之助が松蔭に行動を供することを願い出る。松陰と金子はペリーの艦隊を追って、江戸から南伊豆の下田にやってきた。

下田に来た松蔭と金子はまず蓮台寺温泉へ向かった。これは松蔭が皮膚病を患っていたためとされる。そして側を流れる稲生沢川のほとりで小船を調達、一路ペリーが乗艦するポーハタン号へ向かう。ところが松蔭も金子も舟を漕ぐのが苦手だった。くるくると回転してしまったという。川を下りなんとか海へ出てもなかなか前へ進めない。そうこうしているうちに夜はどんどん深くなっていく。仕方なく柿崎海岸にある弁天島にて身を潜めて一泊した。
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そして次の日、意を決した松蔭と金子はついにポーハタン号へとたどり着いた。艦上で主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談した。しかしペリー側は、松陰たちの必死の頼みを拒否した。松陰の海外渡航計画は完全に失敗したのだ。

失意のうちに下田の街へ戻ってきた松陰と金子は自首して江戸の牢屋に入れられた。その後故郷の萩へ移送された。金子は劣悪な環境下で亡くなった。松蔭は深く悲しんだという。そして、松蔭は獄中で囚人達を相手に講義を始める。その後短い間だったが塾で自らの思想を教えた。この塾が世に名高い「松下村塾」である。その門下生には、幕末の歴史を動かす重要人物が多くいた。久坂玄瑞、高杉晋作もその一人である。

そして江戸幕府大老井伊直弼の「安政の大獄」によって吉田松陰は処刑され、歴史は大きく展開していく。

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時を平成の現在に戻す。

以前も紹介したが、地球の歩き方・アメリカ編の冒頭にはこんなことが書かれている。

「広いアメリカ」を実感するには、地平線が見える大地を突っ走るしかない。「おもしろいUSA」を体験したければ、イベントに自ら足を運ばなければならない。本当のアメリカを知るには、自分で北米大陸を歩いてみることだ。」
(出所)ダイヤモンド社「地球の歩き方 アメリカ 02'~03」

一方、松陰と金子がポーハタン号艦上で手渡した手紙にはこう書かれている。

「外国に行くことは国の法律で禁じられている。しかし、私たちは世界を見たい」

自由に外国へ行くことが許されなかった時代に、アメリカを目指した吉田松陰。不自由な時代に、世界へ飛び出して新しい時代を切り開こうとした彼に、我々が学ぶことは多いのではないか。
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(参考文献)
吉田松陰.com
http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/seinennki.html

草莽崛起
http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/soumoukukki.html
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