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(物語) ある家族の物語 ~泣きながら生きて~

青年と呼ぶには、彼は年を取り過ぎていたかもしれない。彼は日本で人生の再出発を遂げようとしていた。住み慣れた上海に、妻と娘を残して。

丁尚彪(ていしょうひょう)さんは上海で生まれた。もし彼が今の中国に生まれていたら、彼の人生は大きく変わっていただろう。努力家で勉強熱心な彼は、もしかしたらアメリカやイギリスの有名大学を卒業できたかもしれない。しかし、彼が生を受けたのは1954年。彼の人生は、中国全土を覆った「文化大革命」の影響を受けざるを得なかった。

権力闘争と極端な共産主義思想に端を発する文化大革命は、「下放(かほう)」という政策を実行させる。「農民に学べ」というスローガンの下、都会の多くの若者が農村に送り込まれた。丁さんも例外ではなく、電気もガスもない貧しい農村での生活を余儀なくされ、満足な教育を受けることもできなかった。絶望の中で、彼は運命の人と出会う。星さんという女性だった。二人は惹かれあい、結婚した。二人は上海へ戻って新しい生活を始めた。やがて一人の女の子が生まれた。丁さんは希望を表す「琳(りん」と名づけた。(注)

ある日、丁さんは日本語学校のパンフレットを偶然手にした。それは丁さんにとって一縷の希望だった。日本へ渡り、日本語を勉強した後大学へ進学、日本で就職する。そして妻と娘を呼び寄せる。文化大革命によって奪われた人生を日本で再出発する。そう思い描いた。丁さんは親戚や知人に頼み込んで42万円を借りた。その金額は当時の夫婦二人の15年分の収入額だった。

1989年、丁さんは日本にやってきた。しかし、日本語学校のある場所は東京や大坂といった都会ではなく、「マリモ」で有名な北海道の阿寒町。しかも住所は「番外地」と記されていた。多額の借金を抱える丁さんは、働いてお金を返しながら勉強しなければならない。しかし、町の有力産業である雄別炭鉱は既に閉山しており、過疎化が進んでいた。仕事はなかった。そもそも阿寒町が日本語学校を作ったのは、炭鉱閉山による過疎化を何とかしたい、という危機感からだった。借金があるため中国には帰れない。悩んだ挙句、丁さんは東京へ向かう。滞在ビザの更新は認められない。こうして不法滞在者として丁さんは東京で働き続ける。

7年の時が流れた。

丁さんは東京で働いていた。日本へ来て以来7年間、一度も帰国していない。帰国したが最後、もう二度と日本へ戻れないからだ。彼は幾つもの仕事を掛け持ち、過酷な労働に耐えた。さらに仕事を終えた後、深夜まで資格の勉強をした。仕事に困らないように、幾つもの資格を取得した。彼が住むのは都電荒川線が傍を走る古い木造アパート。その壁には、当時小学校4年生だった琳さんの写真が貼られていた。丁さんは、稼いだほぼ全てのお金を中国の家族の元へ送金していた。

その頃、娘の琳さんは上海有数の進学校、復旦大学付属高校で学んでいた。彼女には胸に秘めた夢があった。それはアメリカへ留学して医学を勉強すること。猛勉強の末、彼女はニューヨーク州立大学(State University of New York; SUNY)に合格した。この大学は、留学生をはじめ幅広い人材を迎え、全米でも有数の規模を誇る大学である。

旅立ちの日がやってきた。母と親戚が虹橋空港まで見送りに来た。空港の出発フロアー。小さくなっていく娘の姿に、星さんは涙で立っていることができなかった。8年前、夫を見送ったこの空港で今、娘を見送る。娘の旅立ち。それは、家族三人が上海、東京、ニューヨークと異なる国で離れ離れで生活することを意味していた。

さらに5年の歳月が流れた。

星さんはずっとこの日を待ち続けていた。日本人と違って、中国人にはアメリカ合衆国ビザ免除プログラム(Visa Waiver Program; VWP)が適用されない。観光であっても必ずビザを取得する必要があるのだ。娘の渡米からずっと申請し続けていたビザが、12回目にしてやっと認められた。ニューヨークへ向かう途中、成田空港で飛行機を乗り換えることにした。乗り換えを最大限利用すると東京に72時間滞在することができる。この時間を利用して13年ぶりに夫と再会を果たす。

新装なった上海浦東国際空港。真新しい空港は、新しい時代の到来を告げているかのようだった。13年間離れ離れ。娘も旅立ち、上海にただ一人取り残された母。夫の待つ東京へ。娘の待つニューヨークへ。長い長い時間を越え、上海を飛び立つ。

成田空港へ到着した星さんは、待ち合わせ場所の京成日暮里駅へと急いだ。空白の時間を埋めるかのように、特急電車は日暮里駅へとひた走る。電車が日暮里駅に到着した。そこで彼女が見たのは、あの頃と変わらぬ優しい夫の笑顔だった。

二人は、丁さんの住む豊島区の家へと向かった。そこで星さんは壁に掲げられていた娘と家族の写真を目にする。丁さんは13年間も会えなかったことを詫びた。星さんは家族を愛し、身を挺して娘の夢を実現させようとしている夫の姿を見た。涙が止まらなかった。

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72時間の魔法がとける時がやってきた。

二人は成田空港へ向かう電車に乗った。丁さんは不法滞在の身のため、身分証明者の提示が求められる成田空港まで行くことができない。彼が行けるのは空港第二ビル駅の一つ手前、成田駅まで。二日前、二人の再会を果たすためにひた走った電車が、今日は二人を引き裂くかのように空港へと急ぐ。別れの時が、刻一刻と迫ってくる。電車の中で二人は会話を交わさない。電車は無常にも成田駅のホームへ滑り込んだ。

丁さんはドアが開くと同時に電車を降り、ホームからただ黙って電車を見ていた。停車時間は1分。二人が会話を交わすことはなかった。やがて発車ベルがホームに鳴り響き、電車の車窓が少しずつ右から左へと動き出した。二人は視線を合わさず、ただ短く手を振った。それが別れの挨拶だった。丁さんの目から涙があふれ、星さんも涙が止まらなかった。

丁さんはこう語る。

「別れ。言葉にならないです。夫婦なのに、13年間も一緒にいてあげることができませんでした。妻には大変な苦労をさせてしまった。本当に申し訳なく思います」

「私の家はとても貧乏で、母は字もろくに読めませんでした。私も教育を受けていません。だから、子供を立派に育てたい」

「国家の代表者には、国を良くしていく責任があるように、私には親として子供を育てる義務があります。この義務を果たすために、親は一生懸命生きなければなりません。人には命を懸けて頑張る精神が必要なのだと思います。日本人の皆さんは頑張っている。中国から来た我々は、日本人のこの精神に学ぶことが重要です」

星さんはこう語る。

「今回再会してみて、電話では分からない色々なことが分かりました。最初に夫を見たとき、随分老け込んだと思いました。歯と歯の間が開いてしまって、歯茎が出ていた。昔、夫の歯はああではありませんでした」

「娘はお父さんに感謝しなければなりません。お父さんがいなければ、今の彼女はありません」

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成田発12時。日本航空5便ニューヨーク行きは、星さんを乗せて日本を離れた。機内で星さんは、ずっと黙って座っていた。12時間のフライトが終わり、窓から娘が住むニューヨークの街が見えてきた。飛行機は、その大きな翼を傾けながら着陸体制に入った。

ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港第1ターミナルビル。そこには、最愛の娘が待っていた。到着ホールから出てくる母を見つけると、琳さんは駆け寄って抱きついた。娘の頬から涙が溢れる。その時母は、優しく笑って娘を抱きしめた。

ある家族の、優しい物語である。


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(参考文献ならびに引用)

フジテレビジョン「泣きながら生きて」(2006年11月3日放送)
http://www.fujitv.co.jp/ichioshi06/061103nakinagara/index2.html

*この作品は、2009年11月28日より新宿バルト9をはじめ、全国で劇場公開される。

「泣きながら生きて」 特別サイト
http://nakinagara.net/intro.html

木下康彦・木村精二・吉田寅編「詳説世界史研究」(山川出版社)

(注)
琳さんの正しい漢字表記は「日編」である。日本語にはないため、この表記を用いた。

テーマ : ちょっといい話 - ジャンル : ブログ

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