(物語) これでいいのだ!!~赤塚不二夫と森田一義~

九州一の大都市、博多。一人の青年が、国鉄博多駅のホームに停車している夜行列車に乗り込もうとしていた。大きな夢と少しの不安を抱えながら、青年は列車に乗り込んだ。青年の名を、森田一義と言った。

第1章 満州

1946年、満州(現中国東北部)で敗戦を迎えた赤塚不二夫(本名 藤雄)さんは、日本本土へ引き揚げることになった。多くの引揚者がそうだったように、赤塚一家の引き揚げも凄惨だった。今と違って航空機が発達しているわけではない。港へ向かう列車は乗り切れない人で溢れていた。港へ着いても、日本本土へ向かう船にいつ乗れるかわからなかった。食料も衛生状態も悪かった。劣悪な環境下で妹は命を落とした。個人の力ではどうしようもない事がある。ようやく満州の土地を離れた赤塚さんは、こうした経験を通して人生観を形成していく。

第2章 トキワ荘

満州から引き揚げた赤塚さんは、母の実家である奈良県の大和郡山市に住み始めた。そんな頃、当時人気を博していた手塚治虫さんの「ロスト・ワールド」を手にした。感動が止まらなかったという。その後遅れて帰国した父の実家のある新潟県へ移り住んだ。金銭的な理由から高校進学は断念、絵を描くことが好きだった赤塚さんは、映画看板の制作会社に就職した。同時に、学童社から発行されていた漫画雑誌「漫画少年」へ投稿を始めた。

1953年、18歳になった赤塚さんは上京を決意する。東京の江戸川にある化学工場で働きながら「漫画少年」への投稿を続けた。そして、人気漫画家の石森章太郎さんの目に留まる。3年後に「嵐をこえて」で漫画家としてデビューを飾った。その後も赤塚さんはしばらく石森さんのアシスタントとして働き、手塚治虫さんや寺田ヒロオさん、藤子不二雄(藤本さん、安孫子さん)といった当時の名漫画家が多く住んでいた豊島区のトキワ荘に移り住んだ。

~~
「あしたのジョー」で有名な漫画家ちばてつやさん。赤塚さんと初めて出会ったときのエピソードをこう回想している。

「あの時、僕は講談社の社屋で缶詰になっていました。気分転換に編集者とふざけあっていたら、その編集者の力が強くて、窓ガラスに頭ごと突っ込んでいっちゃった。頭も右手の腱も切る重症。血だらけで漫画が描けなくなっちゃったんです。僕はすぐ病院に行き、編集者はタクシーを飛ばして豊島区のトキワ荘に駆け込んだ。2日徹夜して仕事を終えた石森さんと赤塚さんが応対してくれました。編集者はお二人に頭を下げて僕の原稿を完成するようお願いしました。すると石森さんも赤塚さんも「いいよ」と言ってくれたそうです。二日も徹夜したのに。人の漫画なのにね。

退院後、僕は全身包帯を巻いてトキワ荘に挨拶に行きました。そこには物静かで美男子な赤塚さんがいました。それが赤塚さんとの初めての出会いでした」

1961年、赤塚さんは思い出の詰まったトキワ荘を後にし、アシスタントだった登茂子さんと結婚する。そして翌年、週刊少年サンデーで「おそ松くん」を、りぼんで「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始した。この二つの作品はたちまち大人気になった。1965年には長女のりえ子さんが生まれた。そして1967年「天才バカボン」の連載が始まった。

漫画家としては珍しいことだったが、女優黒柳徹子さんとテレビ番組の司会を担当した。多彩な交流が始まったのもこの頃である。その中にジャズピアニストとして名高い山下洋輔さんがいた。この山下さんを通して、あの青年が赤塚さんに紹介されることになる。

第3章 博多

1972年、山下さんは福岡でのジャズライブを終えた。当時のツアーというのは相部屋が基本で、山下さんたちはライブ後のホテルでメンバーと酒を飲んで、どんちゃん騒ぎをするのが恒例行事となっていた。メンバーの中村誠一さんがゴミ箱を頭に被って、虚無僧の格好をして歌って踊り始めた。この時、九州で働いていた森田さんは、同じホテルにいる大学時代の先輩である渡辺貞夫さんを訪ねていた。帰り際、森田さんは廊下まで聞こえる山下さん達のどんちゃん騒ぎに足を止めた。よく見るとドアの鍵は開いている。森田さんは部屋の中へと入っていく。

森田さんが部屋の中に入ると、中村さん達がゴミ箱で虚無僧の格好をしていた。すると森田さんはそのゴミ箱を取り上げ、自ら踊り歌い始めた。中村さんは得意芸としていたインチキな韓国語で森田さんに文句を言った。すると森田さんは3倍くらい長く、しかも上手なインチキ韓国語で言い返した。山下さんや中村さん達はその見事なインチキぶりに驚き、すぐに仲良くなった。その時の様子を山下さんはこう振り返る。

「今思え返せば、みんなジャズマンなんだよね。ジャズの世界は飛び入りが全然OK。うまい奴はさらにOK。でもヘタクソだと爪弾きにされちゃう。タモリもジャズ好きだったから、意気が合ったんだよね」


第4章 新宿

東京に帰った山下さんは、当時新宿にあった「ジャックの豆の木」というバーで、仲間達に森田さんのことを話した。じゃあ、そいつを呼んでみようということになった。そして1975年、森田さんは夜行の寝台列車に乗って博多から東京へ呼び寄せられる。森田さんは山下さん達に芸を見せ、たちまち大反響を呼ぶ。その中に赤塚さんがいた。赤塚さんは森田さんに歩み寄り、こう言った。

「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ」

二人の出会いはこんな感じで始まった。森田さんは赤塚さんのマンションに居候することになった。森田さんは赤塚先生が幾つもマンションを持っていて、ここはその一つで空いているものだと思っていたらしい。クローゼットにある服は高級品、ブランデーも高級品。森田さんはそれらを勝手に使った。ところが赤塚さんには他にマンションなどなく、事務所のロッカーを倒してその上に布団を敷いて寝ていた。

森田さんは本名をひっくり返した芸名を考え「タモリ」と名乗るようになった。赤塚さんが司会を努める生放送番組に出演した森田さんは、インチキ牧師や言葉などのパフォーマンスを演じた。同じく司会をしていた黒柳徹子さんはその芸の見事さに驚き、森田さんの売り込みに協力するようになった。今でも年末に黒柳さんが司会を努める長寿番組「徹子の部屋」に森田さんが出演するのが恒例になっているが、それはこの頃からの親交と感謝に由来するのだろう。

新宿二丁目にあった「ひとみ寿司」、赤塚さんの事務所や自宅で、赤塚さん、森田さん、山下さんたちは親交を深めていった。寿司で将棋をしてみたり、銀球鉄砲で打合い合戦をしてみたり、伊東の「ハトヤ」でライブをやったらどうなるかという設定でハトヤダンサーズと歌を作ったりした。

「人を笑わせることが大好き」
「馬鹿なことを真剣にまじめやる」

赤塚さんはそんな人生を地で行った。森田さんだけではなく実に様々な人を受け入れていった。地位や名誉、学歴や家柄で人を区別することはなかった。人を信用するあまり、時には詐欺にあってしまったこともあった。しかし、赤塚さんの口から決して非難するような言葉はなかった。いつもお酒を片手にニコニコ笑って、人の話を聞いて、安らぎを与え続けた。一方で、既存のおかしな考え方や古い因習には果敢に挑戦することをも忘れなかった。山下さんは、こう語る。

「これでいいのだ」って言葉について、いつも僕は強く言っている。何もしない奴が現状維持のために「これでいいのだ」って言っちゃいけない。古い考え方をぶっ壊して、必死に新しい価値を創造して、駆けずり回って、くたくたになって、それで最後に語る言葉なんだ」
 

森田さんはラジオ、テレビで大人気を博し、北野たけしさん、明石家さんまさんと並び称される存在になっていく。しかし、赤塚さんと森田さんの友情に変わりはなかった。

一方、赤塚さんの飲酒量は増えていき、アルコール依存症と診断されてしまう。1990年代に食道がんが見つかっても、お酒をやめることができなかった。赤塚さんの元から離れていく人もいた。2000年に硬膜下血腫に、そして2002年には脳内出血に倒れてしまう。それからの赤塚さんの意識は、ずっと不確かなものだったという。

6年もの闘病生活。人を笑わせることにかけた人生。失わなかった前向きさ。
2008年8月2日午後4時55分、赤塚さんは、還らぬ人となった。

赤塚さんの長女、りえ子さんはこう振り返る。

「父の言葉で印象に残っているのは「もっと真面目にふざけなさいよ」「人生、最後に帳尻あってりゃなにやったっていいんだよ」という言葉です。何事も真剣でした。今残っているのは莫大な数の原稿と多くの変な写真と沢山の楽しい思い出です。あと、セーラー服の夏服と冬服ですね(笑)」

「母が逝き、後を追うように3日後に父も逝きました。どうして、って生きる気力がなくなっちゃたんです。通夜の前、父の遺体が安置されている前に赤塚不二夫全集という雑誌がありました。その中の「鉄腕アトムなのだ」という作品を見て私はゲラゲラ笑ってしまいました。こんなもの書いちゃっていいの、って。でも笑うことで私は底を蹴って水面に浮かび上がるような気がしました。これがパパのやりたかったこと、どんな時でも笑うことを忘れちゃいけないってことなのね、とつくづく思いました」


最終章 宝仙寺

森田さんは、これまで友人の死に際してもコメントを発表することはなかった。仕事とプライベートを完全に切り分ける人だった。しかし、赤塚さんの訃報を聞き、所属事務所を通してマスコミ各社に異例のコメントを発表した。日本中が、北京オリンピックの開幕を待っている時のことだった。

5日後、東京中野区にある宝仙寺。人懐っこい顔をした赤塚さんの遺影の前に、森田さんは立った。生涯で初めての弔辞。その手に握られていた弔辞文には、一切何の文字も書かれていなかった。森田一義が放つ、一世一代のギャグ。その最高のギャグに、最高の感謝の気持ちをこめて。森田さんは弔辞を読み上げ始めた。

~~

「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに本当に残念です。我々の世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

10代の終わりから、我々の青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから私のマンションにいろ」と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私にとって金言として、心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのために騙されたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃんの葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のとき、たこちゃんの額をピシャリと叩いては、「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流していました。あなたは、ギャグによって物事を無化していったのです。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは、見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと、思うばかりの楽しい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

あなたは今、この会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。

私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかし今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました」

7分58秒にも及ぶ弔辞。その最後を、森田さんはこう結んだ。

「私も、あなたの数多くの作品の一つです」



赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ」
http://www.koredeiinoda.net/

青梅赤塚不二夫会館
http://akatsuka-kaikan.ome.jp/

(参考文献)
弔辞文引用 スポーツニッポン2008年8月7日記事
ニッポン放送「上柳昌彦の土曜日のうなぎ」 「追悼 赤塚不二夫さんを偲ぶのだ!」 (2008年12月13日放送) http://www.1242.com/unagi/

ほぼ日刊イトイ新聞http://www.1101.com/jazz2/takahira/2007-10-31.html

赤塚不二夫さん葬儀
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080807/tnr0808071147002-n1.htm タモリさんの弔辞
http://jp.youtube.com/watch?v=EEbcF__-jSo

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(旅日記)直指庵(じきしあん)

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旅の最後に訪れたのは、嵐山の外れにある直指庵である。ここは穴場なので、いつ行っても空いている。この直指庵には「思い出草」というノートが置いてあり、自由に書き込みができる。はじめて直指庵に来ましたというものから、不倫相手の子供を堕ろしたとか、大好きだった人と別れましたといった重い書き込みもある。

私がこの直指庵を知ったきっかけはトラベルミステリー作家の西村京太郎氏のある小説がきっかけだ。その小説の殺人事件の解決する重要な手がかりがこの「思い出草」である。もしあなたが思い悩まれたら、信頼できる人に相談することと、直指庵へ行くことを薦めたい。

縁側から見る庭の紅葉が私は好きである。
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旅の最後に、毎年毎年付き合ってくれる大学・語学学校時代からの仲間に感謝したい。男だけ5人で京都の街を巡るというのは珍しいとよく言われる。しかし我々にとってこの京都旅行は大事な企画だ。どんなに時間が流れても、みんなよろしく!

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(旅日記) 大覚寺・大沢池

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二尊院を後にし、チャリを漕いで大覚寺へ向かう。嵐山ののどかな景色の中をチャリは行く。

大覚寺にある広沢池は、自然を満喫することができる。京都の市街地に近いとは思えないほど、自然が豊かだ。池のほとりを一周して、のんびり歩いた。

秋を満喫しました。

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(旅日記) 二尊院

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御髪神社から人ごみの中をチャリを降りて手で押しながら進む。左手に広がるのは百人一首で有名
名な小倉山である。この小倉山にある寺が常寂光寺(じょうじゃっこうじ)と二尊院である。私はこのうち二尊院が大変好きである。

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二尊院にただよう雰囲気がいい。カメラで写真を撮って一番京都の嵐山らしい写真が撮れる。また、庭の縁側に腰掛け、がらはらと舞う落ち葉を見ていると心が落ち着く。

お勧めのお寺です。
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(旅日記) 御髪神社

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この嵐山に、霊験あらたかな神社がある。私が毎年行かねばならないと決めているのが、髪の神様、御髪神社である。

御髪神社は、トロッコ嵐山駅の近くにあるのだが、みんな恥ずかしいのかあまり人がいない。私が毎年1000円もお賽銭に入れるのは、この御髪神社しかない。
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寄付先には、リーブ21の岡村社長や、アートネイチャーといったかつら関係の会社が多い。
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お守りも買った。効能を祈るばかりである。

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(旅日記) 嵯峨野の竹林と野宮神社

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松尾大社から舞い戻り、嵯峨野の竹林を通って野宮神社(ののみやじんじゃ)へ向かう。
嵯峨野の竹林は、いつ来ても荘厳だ。竹は地に深く根を張り、ちょっとのことではびくともしない。いっぽうでその上部は非常にしなやかで、柔軟である。竹はちょっとのことではびくとしない堅固さと、台風や地震の時には柔軟に対応して力を逃がすという二律背反の要素を兼ね備えている。私もそうでありたいといつも思っている。
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その嵯峨野の竹林の中にあるのが恋の神様と呼ばれる野宮神社。
女の子がいっぱいいました。
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(旅日記) 嵐山・松尾大社

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京の旅は2日目に入る。京都駅からJRで嵯峨嵐山駅へ向かう。最近、高架駅になったようだ。昨年とまったく別の駅のような印象を受けた。駅前の貸し自転車屋でチャリンコを借りる。嵐山を効率的に回るためには、チャリが最もいい。

まずは渡月橋を渡って松尾大社へ向かう。嵐山のメインストーリトと渡月橋を疾走する。なんとも気持ちいい。渡月橋を渡ると、ここから一般道路を通る。京都の人の生活を垣間見れるような気がする。そしてチャリはほどなく松尾大社に着いた。

鞍馬山ハイキングと並んで、毎年恒例なのが弓矢大会(樽うらない)である。これは樽の中を弓矢で射抜くもので、なかなかコントロールが難しい。今年もあまりうまく飛ばせなかった。
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(旅日記) 鞍馬寺

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鞍馬寺本堂に着いた。およそ1時間のハイキングである。源義経と鞍馬天狗の伝説で有名な鞍馬寺は、独特な雰囲気で包まれていた。
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(旅日記) 鯖街道と鞍馬寺ハイキング

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京の街から日本海の小浜市まで「鯖街道」と呼ばれる道が続いている。現在、小浜市はその綴りがおなじ「Obama」であることから、次期アメリカ大統領のバラック・フセイン・オバマさんへ盛んにエールを送っているが、由緒ある歴史の街である。かつて行商人達はこの鯖街道を通って日本海の海産物を京の街へ運んだ。

オバマ氏に小浜市から当選祝い…若狭塗、首相が「配達」?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081226-OYT1T00089.htm?from=navr

鯖街道のルートは幾つかあり、最も利用されたのが若狭街道である。これは大原を通って右側のルートであり、現在の国道27号線、303号線、国道367号線のルートである。途中の熊川宿(現福井県上中町)と朽木村(現滋賀県朽木町)が宿場町として栄え、行商人の休憩場として大切な役割を果たした。行商人達は夜明け前に小浜を出発し、夕方には京の街に到着したそうだ。 この熊川宿は最も繁栄した宿場町で、現在も町家造りの町並が整備されている。また朽木も同じく本陣跡や古い家並みが続き当時の面影を感じることができる。

(参考)国土交通省 近畿地方整備局 京都国道事務所 「京の街道 鯖街道」
http://www.kyoto.kkr.mlit.go.jp/study/kaido01_saba.html

この鞍馬を通る鞍馬街道も鯖街道の支線としての役割を果たしていた。朽木で若狭街道から分岐し、この鞍馬を通って出町柳へ辿り着いたそうだ。

貴船神社から鞍馬山までは山道が続く。「鞍馬寺ハイキング」と呼んでいるこのこのコースは、松尾大社の弓矢大会と並んで毎年の恒例行事になっている。毎年思うのだが、ちゃんと運動していないとこの山登りは結構きつい。だが、商人達に言わせれば、「鞍馬山ハイキング」など楽なものだろう。
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(旅日記) 貴船神社

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金閣寺からバスに乗って一路出町柳駅へ向かう。駅前までは行かないので、橋の手前で降りる。どうも京都はいつも交通機関同士の連絡が悪い気がする。ただ、鴨川を渡るのが気持ちよかった。

出町柳から叡山電車で貴船口駅まで行く。NEC_0050.jpg
「三軒茶屋」ではなく「二軒茶屋」という駅を過ぎ、電車はどんどん山の中へと入っていく。市街地から大分離れていく。車窓に緑が展開されていく。私はこの貴船までの車窓の移り変わりが好きである。ほどなく電車は貴船口駅に着いた。ここから連絡バスに乗って、水の神様、貴船神社へ向かう。
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この貴船神社は、水の神様として有名で、境内には「神水」が流れている。また「水うらない」が有名で、全国でも珍しい水に浮かべて文字が浮かび上がってくるおみくじがある。

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この貴船神社がある辺りはすっかり山の中。毎年夏になると、この貴船には川床料理を食べに関西の著名人が集まる。

冷厳あらたかな場所です。

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(旅日記) 金閣寺

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金閣寺に来るのは何年ぶりだろう。

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この金閣寺は、1224年に建てられ、その後室町幕府の三代将軍足利義満の別荘として重宝された。死後、鹿苑寺という寺になった。一般的に金閣寺といわれているが、正しくは鹿苑寺、あの建物は「鹿苑寺舎利殿」という。

戦後まもなく、鹿苑寺舎利殿は修行僧に放火されてしまった。それを元に三島由紀夫「金閣寺」、水上勉が「金閣炎上」という名作を書くのだが、今日では文化財保護のための募金の看板が出ていた。
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文化財は大事にしたいものです。

京都府HP
http://www.pref.kyoto.jp/isan/kinkaku.html

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(旅日記) 京の街角

東海道新幹線を京都駅で降りて、一路大徳寺へ向かう。京都市営地下鉄烏丸(からすま)線の北大路駅へ。地下鉄と言えば普通は東京メトロ千代田線と東西線くらいしか使わないので、この京都の地下鉄はいつ乗っても新鮮だ。

北大路駅はバスのターミナルにもなっている。バスがひっきりなしにやってくる。地下鉄開通後も京都はバス天国と言っていい。歩いて15分ほど、いきなり大きな寺が現れるのがいかにも京都らしい。ここは一休さんで有名な大徳寺である。大徳寺大仙院は、現在の和室の典型である「書院造」で有名だ。国宝に指定されている。「きたる2047年」という看板が面白かった。なかなかこないだろう。
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大徳寺の外へ出て、本日のメインイベントの一つの「あぶり餅」うぃ食べに行く。
写真の右が「一文字屋和輔」、左が「かざりや」だ。
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私はあまり甘いものが得意ではないのだが、このあぶり餅は美味しかった。
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外を振り返ると、そこには京の都らしい風景だった。




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(波乗り日記) 冬晴れの鵠沼

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晴れ 気温6度 波setヒザ

この日も波は小さかったです。富士山がまたまたきれいでした。

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(季節) 秋の成城

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成城の街に、秋の木漏れ日が降り注いでいました。

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(物語) もうひとつのシンデレラエクスプレス~寝台急行「銀河」恋物語~

22時55分、東京駅東海道線ホーム。新幹線の最終新大阪行きがとうに出てしまったこの時刻、かつて深夜ラジオ番組のリクエストコーナーで聞いた話を思い出す。

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私と彼が出会ったのは、大学1年の時でした。私は入学式の時に勧誘された愛好会に入りました。愛好会のみんなと飲んだりカラオケに行ったり、いろんな所へ行きました。彼はその愛好会のメンバーで、その年のクリスマス前に付き合い始めました。彼は大阪の出身。東京で育った私はそれまで関西の人と話をしたことはあまりありませんでしたが、穏やかで優しい人でした。

彼の家は経済的にあまり余裕はなく、それでも彼は東京で一人暮らしをしていたので、帰省する時はいつも東京駅から夜行の普通列車に乗っていました。その電車に乗ると名古屋の先まで行くらしく、その後は電車を乗り継いで大阪まで行くのだそうです。よく東京駅へ彼を見送りに行っていました。

転機が訪れたのは大学4年の時。彼は地元大阪で働きたいと言いました。私は迷いました。ずっと関東で育った私にとって、大阪で働くことはとても不安でした。また私達の大学のレベルでは就職先を見つけるのも大変でした。時はちょうどバブル経済が崩壊した頃。資料請求は100社を越え、書類選考で落とされるのが普通でした。運良く面接まで進んでも不採用の連続。やっと決まった会社は、上野にある小さな会社でした。そして彼は大阪の会社に内定しました。

卒業式が終わり、彼は東京を離れることになりました。私はいつもと同じく東京駅に見送りに行きました。階段を上がっていくと、そこにはいつもと違う列車が止まっていました。青いブルーの車両。彼は私をその列車の一番後ろへ連れて行きました。そこには「銀河」という文字に幾つもの星が描かれた絵が書いてありました。それを見ながら彼は「毎年一回ではなく毎月一回、彦星は織姫に会いにくる。大阪へはこの「銀河」に乗って帰るよ」と言いました。彼の乗る夜行列車を見送った後のホームはただ寂しいだけでした。一人家へ帰る電車の中で、私はずっと泣いていました。

それから3年間、彼は本当に毎月一回、大阪から会いに来てくれました。帰りは決まって急行「銀河」。どうして新幹線で帰らないのか聞いたことがありました。すると彼はこう言ってくれました。「最終の新幹線は午後9時18分、「銀河」は11時。少しだけ長くいれるから」 

そして私達は結婚しました。大阪の高槻という所に今も住んでいます。今思えば、毎月一回、午後11時に東京駅のホームに鳴り響く「銀河」の発車ベルが、一時間早く魔法が解ける合図だったと思います。新幹線で帰ってもたった1時間40分しか変わらなかったのだけれど、その時間はとても大切な時間でした。

ユーミンの「シンデレラエクスプレス」を聞くと、みなさんは新幹線の最終列車を思い浮かべるのだと思います。でも、私にとってのシンデレラエクスプレスは急行「銀河」でした。この歌を聞くと、あの頃を思い出します。

ユーミンの「シンデレラエクスプレス」をリクエストします

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戦後、東海道の夜を駆け抜けてきた寝台急行「銀河」。その役割を、今年の3月14日に終えました。


松任谷由美「シンデレラエクスプレス」(歌詞)
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37345

テーマ : 遠距離恋愛 - ジャンル : 恋愛

(旅日記) 東京駅9番・10番ホーム 22時55分 

銀座で飲んで、酔い覚ましがてら東京駅まで歩く。銀座通りは不景気をあまり感じさせない。駅に着いた。最近完成した巨大なビルが、この日本一のターミナルを見下ろしている。八重洲中央口から東京駅に入ると、JR東海の京都の広告が目に入ってくる。この八重洲口の地下通路に新しくできた「グランスタ」は、既に全ての店がシャッターを下ろしていた。まるで駅が眠りにつこうとしているかのようだった。私の乗る東海道線の電車は7番ホームから出発するのだが、ちょっと9番・10番ホームに立ち寄ってみた。

私は午後10時を過ぎた東京駅9番・10番ホームの雰囲気が好きである。隣の7番・8番ホームが通勤電車が慌しく発着していくの対して、このホームは「ブルートレイン」と呼ばれる夜行列車が旅立っていく。私はこの夜行列車の持つ独特の雰囲気がたまらなくいい。

だが、今やほとんどの夜行列車が廃止されてしまった。若者でも気軽に飛行機や車に乗れる時代、より安く旅したいのであれば直距離バスに乗るだろう。値段が高く、しかも時間がかかる夜行の寝台列車は、もはや時代遅れの遺物なのだろう。今や全車両が寝台の夜行列車は全国で数えるほどしか走っていない。

現在、JR東日本は「東北縦貫線」の工事を進めている。これは、東京止まりの東海道線と上野駅止まりの東北・高崎・常磐線を相互で乗り入れようとするものだ。完成は2013年度である。
http://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20080318.pdf#search='東北縦貫線'
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0810/31/news067_3.html

既に「湘南新宿ライン」という直通列車が走っているが、東京駅回りでも直通列車を走らせ、相互直通運転により都心の田町車両センターを縮小して新しい駅と街を作ろうという計画である。だがこの計画により、一度人身事故や信号機/車両故障が発生すれば大混乱をもたらしかねない。多くの路線が複雑に絡み合い、ダイヤの復旧に相当な時間をもたらすだろう。これは副都心線や半蔵門線、湘南新宿ラインの混乱を見れば簡単に予想できる。輸送障害時の対策をあらかじめきちんと建てておかないと、乗客にかえって不幸な結果をもたらすことになるだろう。

そして東北縦貫線の運転が開始されれば、間違いなくこの東京駅9番・10番ホームの雰囲気も変わってしまうだろう。7・8番ホームは上野方面行き、そしてこの9番・10番ホームは横浜方面行きとなるだろう。その時、新宿駅のように殺風景な慌しい雰囲気になってしまうだろう。

時間と効率が求められる時代。東京に限らず街はどんどん変わっていく。そんな変化に、ちょっと疲れを感じる。だから時代遅れのブルーの車両を見ると安らぎを覚えるのかもしれない。

この東京駅9番・10番ホームから、かつて私の好きな夜行列車が関西の大阪へと旅立っていった。寝台急行「銀河」といった。「銀河」はまだ夜行列車が全盛期だった頃はずいぶんと地味な存在だった。だが、東京駅を東海道新幹線の最終「のぞみ」よりも遅く出発し、翌朝の一番列車よりも早く大阪に着くダイヤが幸いしたのだろう。「銀河」は今年まで存続していた。 だがそんな「銀河」にも時代の波が押し寄せる。

この寝台急行「銀河」には、こんな恋物語があった。

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