(歴史小話) コルチャック先生、愛の詩

1994年、我が日本国は一つの条約を批准した。「子供の権利条約」と呼ばれるこの条約は、1979年に欧州のポーランド政府が提唱し、東西冷戦崩壊前後の1989年に正式に国際連合で成立した。この条約の精神には、ある一人の教育者の魂が込められている。その教育者の名をヤヌシュ・コルチャックと言う。

豊かな家庭に生まれて

コルチャック先生は、ロシア帝国が支配するポーランド王国ワルシャワのユダヤ系の家庭に生まれた。父は弁護士。離婚法の権威だった。母もまた教養の高い女性だった。一般的に東欧のユダヤ人家庭は貧しかったが、父が弁護士であることから豊な家庭だった。コルチャック先生はワルシャワ大学医学部へ進学、その後ベルリン、パリ、ロンドンなど各国に留学した。



コルチャック先生は、子供の頃から医者になりたいと夢見ていた。当時ワルシャワにはワルシャワ慈善協会という組織があり、貧しい人々に慈善事業を行い、孤児院、病院、図書館、非合法の学校、職業訓練所などを運営していた。コルチャック先生はこの非合法の学校の教師として働くことにした。さらに彼が34歳の時、2つのホーム(孤児院)を作った。一つはユダヤ系の孤児達が住む「ドム・シェロット(孤児たちの家)」、もう一つがポーランド人の孤児たちが住む「ナシュ・ドム(僕達の家)」だった。このナシュ・ドムの教育方針は今日においても傾聴に値するものである。

「子供たちの人生は、子供たち自身の力で築きあげていかれるべきものである。それには、道徳的な強さと向上心が要求される。私達は細心の注意をもって、一歩一歩それを実行し、互いに協力しながら自分自身を育てていこう」

コルチャック先生の教育

今でもそう見られることが多いかもしれないが、1920年代の欧州では、子供とは未完成の大人だと見られるのが一般的だった。しかしコルチャック先生は、子供とは一つの小さな人間であり、その権利は正当に保証され、すべての子供の未来は約束されるべきものと考えていた。

2つのホームでは、その運営は基本的に子供達に任かされていた。世界初の子供新聞が発行され、子供による裁判が行われ、年長の子が年少の子の面倒を見るという教育が実践されていた。その結果、多くの子供達が自律的に物事を考え、問題の本質を捉え、どのように対処していったらよいのかを考えるようになっていった。

絶望の中で

1933年にドイツでヒトラー率いるナチス政権が誕生、ポーランドでも反ナチス暴動が次第に過激になっていった。1939年、ドイツ軍が突如としてポーランドへ侵攻した。第二次世界大戦の始まりである。ポーランド軍は完敗、首都ワルシャワはドイツ軍に占領されてしまう。ラジオからラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」が流れている時だった。

翌年、ワルシャワにユダヤ人の居住区が設けられる。いわゆる「ゲットー」である。コルチャック先生をはじめ、多くの子供達もこのゲットーの中に強制移住させられた。しかし、彼の協力者が比較的きれいな建物を用意してくれた。ナチスの手先による監視下にはあったものの、子供達はこれまで通りに子供新聞を発行し、子供裁判を行い、授業も行われていた。音楽祭や劇まで行われていた。しかしこの時、コルチャック先生は食べ物や医薬品の確保に心血を注いでいた。ほぼ全ての蓄財を賄賂に廻した。このお金を使えば、アメリカやパレスチナへ亡命することも可能だったかもしれない。しかし、コルチャック先生はその蓄財を子供たちのために使った。

さらにコルチャック先生は、医師として病弱な子供達に検診を行う傍ら、劣悪な環境下にあった孤児の乳児院にも暖かい手を差し伸べた。約200名の子供が檻のような部屋に閉じ込められ、食事も与えてもらえず、排泄物は垂れ流しだった。病気が蔓延していた。コルチャック先生は、常に絶望と背中合わせの中で子供達に接していた。いつの日か、この絶望が終わることを信じて。

天使の行進

ナチス政府は、1942年にユダヤ人の「最終解決」を決定した。「最終解決」とは、ユダヤ人を絶滅にすることだった。占領地、ポーランドにはいくつもの強制収容所が作られた。

その日は、暑い夏の日だった。コルチャック先生と200名の子供達は、ホームから強制退去を命ぜられた。この日のために、コルチャック先生とともにホームを運営してきたステファノ夫人は、子供達に真新しい服を用意していた。子供たちはこの服を着て、駅へ向って四列縦隊で歩いていく。一番前を歩く子供は、緑の色の旗を天高く掲げていた。この緑の旗は、希望を現すホームの旗だった。その次に女の子を抱えたコルチャック先生が歩く。その後を200人の子供が整然と続いた。取り乱す子はいなかったという。それを見た当時の人達は、まるで天使が行進していたように見えたと語っている。

天国へ

この時、コルチャック先生は長年の功績がナチス政府に認められ、特別に罪が許されていた。混乱した時代なので多くの証言が残っているが、その一つにこんな証言がある。

駅に着いたコルチャック先生と子供たち。あるドイツSS(親衛隊)の一人がコルチャック先生に向ってこう言った。「あなたは特別にこの列車に乗らなくていい」。コルチャック先生は「では子供たちは?」と聞いた。するとそのSSは「子供たちはダメだ。あなただけだ」と言った。コルチャック先生は毅然とした態度でこう応えた。

「あなたは間違っている。まず子供を!」


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(参考文献)
「決定版 コルチャック先生」
http://www.amazon.co.jp/%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E5%85%88%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/4582765408

日本ユニセフ 「コルチャック先生と子供の権利」
http://www.unicef.or.jp/kodomo/teacher/pdf/sp/sp_26.pdf

"Janusz Korczak Communication - Center"
http://korczak.com/Biography/kap-0.htm

"Parenting Advice from a Polish Holocaust Hero"
http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=7669479

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(波乗り日記) 大東

快晴 気温28度 波 setコシ 無風

サークルの波乗り仲間と久々の波乗り。車で一路大東へ向います。3連休初日のこの日の大東はすごい人混み。地引網の近くでライデング開始です。

波はそれなりに大きいけど、横に滑ると他の人にぶつかりそうになるので、そのままインサイドまで乗っていく感じ。鵠沼状態に近い。でも千葉・大東のサーファーはマナーがとてもいい。最近、この海で知り合いになったベテランサーファーの方がいたので、ご挨拶。今日は人がちょっと多いねえ、って話しをしましました。
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御宿20080418

夕暮れまで波乗り。夕暮れに染まる海岸はきれいでした。
すっかり腹ペコ。2人で海岸すぐそばにあるガストへ急行。激うまでした!波乗りの後のご飯は至福のうまさです。
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帰りは一宮でお祭り渋滞にはまりました。秋も祭りの季節です。
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(音楽) メロディ (サザンオールスターズ)

サザンを好きなってはや20年。小学6年生の時にラジオからこの曲メを聞いたのがきっかけだった。

「君が涙を止めない」で始まるこの歌は、夏の終わりのせつなさと、恋の終わりのせつなさが絶妙に描かれている。

この歌のメロディが、夏の終わりを告げます。

「メロデイ」 歌詞
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4504/index.html

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(波乗り日記) 鵠沼 

気温30度 波 Setヒザ

9月に入って最初の鵠沼は、波が小さい・・・
インサイドでショートライデングして終了です。


鵠沼1 20080618

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(波乗り日記) 鵠沼

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快晴 気温28度。波setコシ

8月最後週の鵠沼。サークルのメンバーと行ってきました。とにかく連日雷雨と集中豪雨が続いていたこの頃、波乗りできるか心配だったけど、午後まで待って海に行ってみたら快晴でした。

波は最高!平日なのであまり人もいない。鵠沼スケートボードパークに車を止め、河口前から船前あたりで入りました。波に乗りまくり。セット間隔もよく来る波来る波、全てヒット。明日は千葉の大東へ行くと言うのに、そんなことはお構いなく乗りまくり。よく覚えてないけど30本以上は乗ったと思われます。しかも快心のライデングも6本はありました。

帰りはお気に入りのオーシャンモス・鵠沼店でロコモコを食べて帰宅。
明日に備えます。

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(波乗り日記) 吉佐美大浜

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(1日目)
晴れ 気温32度 波 Setヒザ

吉佐美大浜のそばのペンションに陣取り、2日目から波乗り開始。1日目のこの日は、セット間隔長め。どうもこのところ吉佐美大浜も入田浜もダンパー気味のショアブレイクが多い気がする。

川の河口に岩があるので注意しながらワンアクションを繰り返す一日でした。
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(2日目)

快晴 気温33度 波 Set コシ

2日目はセット間隔が前の日よりも短め。でもフェイスは素晴らしい。
朝から入って1R、朝食後に河口のあたりで2R。人が少なかったので、乗りまくりました。20本以上乗ったかな?レールを入れて、ターンにカットバックも決まって最高!

南伊豆は水も砂浜も本当にきれい。魚料理も最高にうまい。 やっぱり南伊豆は素晴らしい。今度は隣の入田浜へ行く予定です。
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(物語) グラウンド・ゼロへ

世界警察・消防競技大会

2001年6月。アメリカのインディアナ州インディアナポリスで、世界中の警察官・消防官が集まって日頃の訓練の成果を競う「世界警察・消防競技大会」(World Police and Fire Games)が開かれた。横浜市消防局に勤務する志澤公一さんは、日本代表としてこの大会に参加、各国の消防官と親交を深めた。その中にはニューヨーク市消防局(New York City Fire Department , FDNY)の消防官、デイビットさんもいた。

悪夢の911

その年の9月11日、ニューヨークを悪夢が襲った。四機の航空機がハイジャックされ、そのうち二機が世界貿易センタービル(World Trade Center)の南棟と北棟に突入した。後に「ナインイレブン(911)」と呼ばれる同時多発テロだった。

航空機突入の通報を受けたFDNYは直ちに消防官を世界貿易センタービルへ向わせた。この時、まだビルは2棟とも崩落していない。多くの消防官がそれぞれ非常階段を駆け上がって行った。南棟の中層階で働いていた女性はこう証言している。「私達はこの場にいては危険だと感じ、とにかく非常階段を駆け降りました。そこで階段を駆け上がる消防官達とすれ違いました。彼らはどうなってしまったのでしょうか・・・」 そしてまず南棟が、続いて北棟が崩落した。巨大な粉塵がマンハッタンを飲み込んだ。

既に日本に帰国していた志澤さん達は、世界警察・消防競技大会で知り合ったデイビットさんの安否を確かめるためにメールをした。数日後ようやく返信を受け取った。いつもは長く楽しいメールを書くデイビットさんが、この日はSOSを告げる短いメールを送ってきた。

「仲間の行方が分からない。何とか助けてくれないか」 

志澤さんは大会に一緒に参加した消防官仲間に連絡を取った。呼びかけに応じて集まったのは8人。さらに2人、FDNYで短期間ながらも研修を受けた若き消防官が自らニューヨーク行きを志願してきた。

国際緊急援助隊、派遣されず

日本政府は事件直後、直ちに国際緊急援助隊を結成して羽田空港に待機させていた。しかしアメリカ政府はその威信にかけて自らの力でこの惨事を処理しようとしていた。各国に対して公式に災害派遣隊の要請を出すことはなかった。国際緊急援助隊は空しく解散を余儀なくされた。

ニューヨークへ

志澤さん達11人の消防官は、自らの意志で有給休暇を取得することを決意する。消防官という仕事に就く彼らが休暇を取得するということは容易なことではなかった。だが、彼らの同僚や上司は理解してくれた。ニューヨークへ行くことを許可してくれた。

10月6日18時15分。志澤さん達を乗せたユナイテッド航空800便は、一路ニューヨークへ向けて飛び立った。彼らは日本国消防庁が公式に派遣した救助隊ではない。あくまでボランティアとして消防官仲間の安否を確認すること、義捐金を渡すことが目的だった。そんな彼らの根底にあったのは、同じ仲間である消防官を救いたいという思いと、消防官としてのプライドだった。

志澤さん達が見たグラウンドゼロ(Ground Zero)は、今まで見たことがない悲惨な現場だったという。数十メートルを越す巨大な瓦礫、火は至る所でくすぶっているのが見えた。グラウンド・ゼロの周囲には規制線が張られ、外国人の立ち入りは厳しく制限されていた。それは志澤さん達も例外ではなかった。各国が自発的に派遣した救助隊は手持ち無沙汰で規制線の外にいた。

志澤さん達はまずFDNYの各消防署を周った。デイビットさんと再会し、義捐金を渡した。また、自由の女神に近いステタン島では犠牲になった消防官の葬儀に参列することができた。一応の目的は達せられた。しかし、何かやり残したという思いを感じざるを得なかった。彼らは日本から自分の消防服や救助道具を持参していた。いくつかのFDNYの消防署と交渉し、「目を真っ赤にして救助活動にあたる消防官を助けたい。なんでもいいからやらせて下さい」と頼み込んだ。だが、いい答えは返ってこなかった。「ありがとう日本の消防官。気持ちは十分ありがたいと思っている。だが我々は命令で動いている。それを無視する訳にはいかないんだ。すまない。」

途方に暮れる志澤さん達は、グラウンドゼロの近くである牧師さんと出会った。その牧師さんは志澤さん達に向ってこう言った。「私は第二次世界大戦の時、従軍して日本と戦いました。しかし今、その日本から我々を助けに来てくれた人達がいる。なんと素晴らしいことでしょう」彼はかつてFDNYに勤めていたOBだった。彼の取り持ちで志澤さん達11人の消防官は救援活動に参加することが許可され、規制線の中に入ることができた。そして二班に分かれ、救助・消火活動を開始した。与えられた時間は4時間だった。その短い時間で、志澤さん達は瓦礫の中にある空洞を見つけ、その中に突入、未発見の消防官の酸素ボンベを発見した。その懸命な働きぶりに初めは「俺達の聖地を荒らすな」という顔をしていたFDNYの消防官達も、「後は俺達が引き継ぐ。本当によくやってくれた。本当にありがとう」と言って、志澤さん達は歓声と握手とハグ攻めにあった。

志澤さんには忘れられない思い出がある。

各消防署を回ってホテルへ帰る途中、道行く人の中から握手を求めてくる人がいた。「サンキュー ベリーマッチ」と声をかけてくる人がいた。「アリガト」と片言の日本語を叫ぶ人もいた。志澤さん達が自発的にニューヨークへ来たことを、CNNをはじめとするメディアが報じていた。志澤さん達が「JAPAN FIRE」という国際緊急援助隊のTシャツに似せたユニフォームを着ていたので、一目で彼らが日本から来た消防官だと分かったからだろう。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4421006734/ref=dp_image_text_0?ie=UTF8&n=465392&s=books

ある夜、FDNYのデイビットさんが志澤さん達の苦労をねぎらうためにレストランに招待した。店に入った時のことだった。ウエイターは「ようこそ、日本の消防官。本当にありがとう」と言って彼らをテーブルまで案内した。その時、店にいたお客さん達はナイフとフォークを置いて一勢に大きな拍手をした。

そして、帰国するユナイテッド航空の中でこんなアナウンスが流れた。

「機長です。ここにはテロ現場で救援活動に携わった日本人消防官の皆さんが乗っています。日本人消防官の皆さん、ありがとう」

アナウンスを聞いた乗客たちは一勢に立ち上がり、歓声をあげて拍手を送った。最高の賛辞を贈るスタンディングオベーションだった。拍手は数分間鳴り止むことがなかったという。

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この大惨事で犠牲になった方は2000人を越える。そのうち救助活動で命を落としたFDNYの消防官は343人。ニューヨークのグラウンドゼロで、志澤さん達が救援活動に参加できたのはわずか4時間。しかしその行動は、多くの人達の心に刻まれている。

すべての犠牲者に捧ぐ。


ニューヨーク市消防局(New York City Fire Department)
http://www.nyc.gov/html/fdny/html/home2.shtml

Photo : Ground Zero Images Gallery "It comes many forms"
http://nyc.gov/html/fdny/html/wtc_other/ground_zero/best_036.shtml

September 11, 2007
http://nyc.gov/html/fdny/html/units/photo/galleries/2007/wtc_2007/wtc_2007_1.shtml

Photo : Ground Zero Images Gallery "Silent Prayer"
http://nyc.gov/html/fdny/html/wtc_other/ground_zero/best_020.shtml

Photo : Ground Zero Images Gallery "Simple Question"
http://nyc.gov/html/fdny/html/wtc_other/ground_zero/best_029.shtml

(参考文献)
中沢昭「9・11、JAPAN―ニューヨーク・グラウンド・ゼロに駆けつけた日本消防士11人」(近代消防社)

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