スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(歴史小話) 吉田松陰、アメリカを目指す (後編)

IMG_0774.jpg

「吉田松陰、アメリカを目指す」(前編)の後編です。
http://hayamabeach.blog39.fc2.com/blog-entry-246.html

時は1852年。アメリカ東海岸にあるノーフォーク港をアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が乗艦する戦艦ミシシッピ号以下4隻の軍艦が出航した。フィルモア大統領の親書を携えた彼の任務は、鎖国の日本を開国させることだった。

ペリーの来航に関し、意外と知られていないが彼らの艦隊の辿ったルートである。今日の飛行機のように太平洋を横断して直接日本に来たのではない。何よりノーフォークは西海岸ではなく、東海岸の街である。まず大西洋を横断してスペイン領カナリア諸島へ、その後アフリカ大陸喜望峰を回ってモーリシャス、セイロン島、シンガポール、香港、上海、琉球を経由して日本の浦賀(現:神奈川県)にやってきたのだ。このルートは、後の1905年に日本海軍と決戦するロシアのバルチック艦隊と似ている。

「ペリー来航」と称されるこの事件の際、浦賀に出かけて衝撃を受けたのが吉田松陰である。彼は江戸幕府の国防政策に不信感を募らせ、危機感を覚える。そして強烈な好奇心が彼を包み込む。西洋の強国は万里の波濤を超えてはるばる日本へやってきた。ならば俺も行ってやろう。どんな国かこの目で見てやろう。日本を守るためには西洋の進んだ国を知らなければならない。そして多くの事を学びたい、と。吉田松陰は海外へ行く事を決意する。

ペリー来航からわずか一カ月後、今度はロシアのプチャーチンが長崎にやってきた。松陰はロシア船に乗り込むべく長崎に向かったが、彼が長崎に着いたときにはロシア艦隊は出航した後だった。そして1854年(嘉永7)年、再びあのペリーが日本にやってきた。この時、松陰と同じ長州藩の金子重之助が松蔭に行動を供することを願い出る。松陰と金子はペリーの艦隊を追って、江戸から南伊豆の下田にやってきた。

下田に来た松蔭と金子はまず蓮台寺温泉へ向かった。これは松蔭が皮膚病を患っていたためとされる。そして側を流れる稲生沢川のほとりで小船を調達、一路ペリーが乗艦するポーハタン号へ向かう。ところが松蔭も金子も舟を漕ぐのが苦手だった。くるくると回転してしまったという。川を下りなんとか海へ出てもなかなか前へ進めない。そうこうしているうちに夜はどんどん深くなっていく。仕方なく柿崎海岸にある弁天島にて身を潜めて一泊した。
IMG_0772.jpg

そして次の日、意を決した松蔭と金子はついにポーハタン号へとたどり着いた。艦上で主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談した。しかしペリー側は、松陰たちの必死の頼みを拒否した。松陰の海外渡航計画は完全に失敗したのだ。

失意のうちに下田の街へ戻ってきた松陰と金子は自首して江戸の牢屋に入れられた。その後故郷の萩へ移送された。金子は劣悪な環境下で亡くなった。松蔭は深く悲しんだという。そして、松蔭は獄中で囚人達を相手に講義を始める。その後短い間だったが塾で自らの思想を教えた。この塾が世に名高い「松下村塾」である。その門下生には、幕末の歴史を動かす重要人物が多くいた。久坂玄瑞、高杉晋作もその一人である。

そして江戸幕府大老井伊直弼の「安政の大獄」によって吉田松陰は処刑され、歴史は大きく展開していく。

~~

時を平成の現在に戻す。

以前も紹介したが、地球の歩き方・アメリカ編の冒頭にはこんなことが書かれている。

「広いアメリカ」を実感するには、地平線が見える大地を突っ走るしかない。「おもしろいUSA」を体験したければ、イベントに自ら足を運ばなければならない。本当のアメリカを知るには、自分で北米大陸を歩いてみることだ。」
(出所)ダイヤモンド社「地球の歩き方 アメリカ 02'~03」

一方、松陰と金子がポーハタン号艦上で手渡した手紙にはこう書かれている。

「外国に行くことは国の法律で禁じられている。しかし、私たちは世界を見たい」

自由に外国へ行くことが許されなかった時代に、アメリカを目指した吉田松陰。不自由な時代に、世界へ飛び出して新しい時代を切り開こうとした彼に、我々が学ぶことは多いのではないか。
IMG_0776.jpg

(参考文献)
吉田松陰.com
http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/seinennki.html

草莽崛起
http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/soumoukukki.html
スポンサーサイト

(歴史小話) 吉田松陰、アメリカを目指す (前編)

この旅に2冊のお供がいる。司馬遼太郎の「世に棲む日々」(文書文庫)である。この小説は、江戸時代末期、幕末と呼ばれる時代に生きた、吉田松陰と高杉晋作の2人の師弟を描いている。WestfieldのSeatlle's Best Coffeeにて1巻を読み終わり、2巻に突入である。

吉田松陰とは、幕末の思想家である。長州藩(現山口県)の萩に生まれ、親類が設立した「松下村塾(しょうかそんじゅく)」にて、その後日本の歴史を動かす久坂玄端、高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)といった門下生を育てた。後に日本初の内閣総理大臣になる伊藤博文(成人前の名は伊藤利助)もこの松下村塾のグループと知り合いになり、下級藩士であったにも関わらずその才能を見出してくれる人達とのネットワークを作った。

松下村塾で松陰が教えた思想は、「天皇を中心にした国家を作り、外国からの脅威を守れ」という急進的なな思想である。つまり時の政府である江戸幕府を否定しているのだ。そのことは私も知っていた。今回読んだ「世に棲む日々」では、1854年に松蔭はペリー提督が乗る黒船を追って、江戸→神奈川→下田まで行き、さらに下田でペリー達の黒船に乗船させてもらい、アメリカまで連れて行ってもらおうと行動を起こした、というのである。

南伊豆下田と言えば、波乗りで私がよく行く場所である。海は綺麗だし、魚も旨い。
実際に行って調べてみることにしましょう。(後編に続く)

テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

(歴史小話) 国境を越えて1~エルトゥール号事件と山田寅次朗~

エルトゥール号

1889年(明治22年)7月15日。オスマントルコ帝国イスタンブール港を一隻の軍艦が出航しようとしていた。2年前に日本から皇族の訪問を受けたその返礼として、時の皇帝アブドゥル・ハミト二世は、オスマン・パシャ海軍少将を全権特使として使節団を結成して日本へ向かわせた。この時、バシャ少将を乗せたのが軍艦エルトゥール号だった。

エルトゥール号は総排水量2344トン、全長は約46メートル、機関は600馬力の木造巡洋艦だった。この老朽艦が、後のバルチック艦隊とほぼ同様のコースを辿って日本までの長征についた。ただバルチック艦隊との違いは、当時イギリスが支配していた紅海のスエズ運河を通過したことだ。(バルチック艦隊の一部もスエズ運河を通過しているが、本隊ははるかアフリカの喜望峰を回った)

エルトゥール号は、旅の途中で故障しながらもインド、シンガポール、仏領インドシナ(現ベトナム)、香港、中国を経て、1890年6月7日についに横浜港へ辿りついた。使節団は、大日本帝国の明治天皇に謁見し日本各地で大歓迎を受けた。

嵐の中の出港

9月14日。使節団は一連の予定を終えて帰国の途につこうとしていた。しかし日本政府は9月は台風の季節であり、エルトゥールル号が老朽化していることから出航を延期することをすすめた。だが、一行は日本政府の勧めを丁重に断り、出港した。横浜から紀伊半島を通って神戸港へ向かうエルトゥール号。その時、嵐が近づいていた。

遭難と大島村民

紀伊半島熊野灘樫野埼付近。エルトゥール号は台風の直撃を受けて座礁した。船底から浸水、蒸気機関が爆発して炎上、ついには海の藻屑と消えていった。この遭難で、オスマン・パジャ少将以下650名が海に投げ出された。 士官ハイダール以下69名は、艦の破片にすがって約3時間ほど漂流、樫野崎灯台下の砂浜にはい上がり、助けを求めた。

大島村樫野区民高野友吉は、海の上からの爆発音を聞き、灯台看守に知らせるために灯台に向かっていた。当時はまだ、江戸時代から続く風潮で、異国船の進入に過敏になっていたのだろう。彼は見たこともない異国人が弱りながら歩いている姿を目撃した。彼はあり合わせの着物をその異国人に着せ、傷の治療をしながら夜明けを待った。そして区民に通報して、互いに助け合って丁重に介抱し、夜明けを待った。

夜が明けた。彼は大島村長沖周、古座分署長小林従二に報告したところ、村民達も急を聞き応援に駆けつけた。沖村長は県庁に緊急打電し、樫野、須江両区長と協力し、生存者を急造の担架で大島区の蓮生寺に送った。蓮生寺では村医が遭難者の治療を担当した。

大島村民は各戸に蓄えているわずかな食料を傷ついた将兵達に与えた。だが彼らは貧しい漁民。自らの食べ物さえ事欠いている有様だった。乏しい食料は一夜にして底をついてしまった。そこで、彼らは、非常用に飼っていた鶏などの動物を将兵達に提供することを決意する。蓄えている食料すべてを提供した。

その後捜索が行われ、発見された他の遭難者の遺体はハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬した。

村民達の清貧

この話は当時の和歌山県知事から明治帝に上奏された。そして遭難者たちは、明治天皇の命により日本海軍の戦艦2隻で無事トルコに送り届けられた。オスマン・トルコ帝国は、献身的な介護をしてくれた大島村民たちに対し、3000円(現在の約6000万円相当)を贈った。沖村長はこれを銀行に預け入れ、その利息を村のために使った。彼が私腹を肥やすことは無かった。日本政府もまた、大島村民を大いに褒め、彼らに救助に要した費用を補償することを申し出た。だが、村民達はこれを丁重に断り、こう言った。

「今回の事故で多くの方々が亡くなった。どうかその方々のための義捐金に使ってください。」

彼らの気高い精神とその行いは、後に「エルトゥール号事件」として広く世に知られ、日本中に大きな感動と衝撃を与えた。そして一人の若者の心を動かす。その若者の名を、山田寅次朗といった。


山田寅次朗、立つ

山田寅次郎は、旧沼田藩の家老の子である。彼が24歳の時に新聞で目にしたエルトゥール号事件と大島村民の行動は、彼を熱くした。そして全国を練り歩いて演説会を開催し、1年で約5000円(現在の約1億円)の寄付金を集めた。彼は時の外務大臣青木周蔵を訪ねて義捐金をトルコへ送金し、遺族の慰霊金に使って欲しいと願い出た。青木は、意外な返答をした。

「この大金は山田君が集めた天下の浄財であり、貴君自身がトルコへ届けに行って欲しい。」

青木は、山田をトルコ行きの手配をしてくれ、彼は単身イスタンブールへと旅立った。そして民間人としては異例の皇帝アブドゥル・ハミド二世に謁見することを許された。 山田は謁見の際に、山田家伝来の鎧兜と太刀を皇帝に献上した。そしてオスマン帝国の高官は、トルコの青年士官たちに日本語と日本の精神や文化について教えて欲しい、と依頼した。山田はそのままトルコに滞在することになり、士官学校のお雇い講師になった。彼は陸軍士官と海軍士官に日本語と日本の文化・精神論を教えた。教えを受けた士官の中には、後に近代トルコの父と呼ばれるケマル・アタチュルクもいた。

士官学校を辞めた後も彼はイスタンブールに滞在し、日本の工芸品を商う店を構えて日本とトルコの貿易の礎を築いた。その一方で山田は、日本とトルコの共通の敵であるロシアの諜報活動も行った。日露戦争の際には、単身ボスポラス海峡の丘の上に立ち、商船に偽装した敵艦隊出港の秘密電報を打ち、高い評価を受けている。

1914年(大正3年)に第1次世界大戦が開戦。トルコは日本の敵になってしまったため、山田は遂に日本へ帰国した。そして紙巻タバコの洋紙を製造する製紙会社を起した。1923年(大正12年)に山田寅次郎は家元を襲名、宗徧流第8世山田宗有(そうゆう)となった。

第1次世界大戦終結後の1924年、日本はトルコ共和国と正式に国交を結んだ。東京のトルコ大使館の開設に当たって、山田は援助を惜しまなかった。山田はこの年の秋に大阪日土貿易協会を設立して理事長の職に付き、エルトゥール号遭難の地の樫野の墓地に慰霊碑を建てるために尽力した。そして1931年(昭和6年)、山田は17年ぶりにトルコの大地を踏んだ。イスタンブルに滞在して、現地の財界から大歓迎を受けた。そしてケマル大統領にアンカラに招かれて面会した。この時、ケマル大統領は士官学校で山田が日本語を教えていた時、自分もその中のひとりとして日本語を教わったという思い出を語り、丁重な態度で山田に接した。

山田は第二次世界大戦も生き抜き、1957年(昭和32年)に91歳で亡くなった。 (つづく)

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

(歴史小話) 国境を超えて2~友情の翼~

緊迫のテヘラン

山田寅次朗がその豪快な人生を閉じてから28年の月日が流れた。

1985年3月12日。イランとイラクは交戦していた。アメリカの支援を受けたサダム・フセイン大統領は、イランの首都テヘランに対する空爆を下令、そして3月19日20時半以降、イラン上空を飛行する全ての航空機を撃墜する声明を出した。

この時、テヘラン在住の日本人は約1000名。多くの人々は順次脱出していたが、メヘラバード空港に約300名が逃げ込んできていた。日本政府は邦人脱出の手配を進めていたが、調整に時間がかかってしまった。日本国外務省から要請を受けた日本航空(JAL)は、当時テヘランへの定期便を持っていなかったこともあり、3月19日20時半というタイムリミット前にイラン領空を脱出できないことを理由に外務省の要請を断ってしまう。日本からの救援の道は閉ざされた。

野村大使、窮余の一策

欧州へ運よく逃げれた人もいたが、最終的に空港にとり残された日本人は約200人。タイムリミットは刻々と迫っていた。こうした緊迫した状況の中、在イラン日本大使館野村豊大使は最後の一手を打とうとしていた。それは、野村大使が日頃から親交のあったトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴え、トルコ航空に緊急フライトを要請することだった。ビルレル大使は野村大使の申し出を快諾してくれた。この時、彼は野村大使に対してこう言ったという。「トルコ人誰もがエルトゥール号の遭難の際に受けた恩義を知っている。今こそ、あの時のご恩をお返しさせていただきましょう。」

トルコでも必死に尽力した人物がいた。商社伊藤忠の森永尭は、トルグト・オザルと10年来のつきあいがあった。森永は、当時経済官僚だったオザルが、疲弊していたトルコ経済を日本のようにしたいと強く願っていたことを知り、日本からの技術協力などに尽力していた。やがて彼ら二人の間には、強い絆が芽生えた。

森永はイランの日本人の窮状を知っていた。彼は、今や大統領となったオザルに直接救援機の派遣を申し入れた。ビルレル大使と森永の熱意がオザル大統領を動かした。トルコ航空救援機の派遣許可が下りた。

友情の翼

トルコ政府から要請を受けたトルコ航空本社は、その要請内容に緊迫していた。やがて選りすぐりの機長、アリ・オズデミルに業務命令が出された。アリが業務命令を読み上げた時、スタッフに対してこう言った。「今回は命を懸けたフライトになる。だから命令を拒否してもいい」 しかし、副操縦士以下、命令を拒否する者は誰もいなかった。ある一人が言った。

「我々を待っている人たちがいる。直ちにフライトの準備にかかりましょう。」

トルコ航空の航空機は、トルコのアタチュルク空港を飛び立ち、危険なイラン領空を避けてカスピ海を南下しつつ、テヘランのメヘラバード空港へ急行した。一方、メへラバード空港で救援を待つ日本人たち。そして大空の彼方から1機の航空機の翼が見えた。それは、自分の命を賭してまで駆けつけてくれた友情の翼だった。

時間がない。トルコ航空機は空港に着くなり、出発準備にとりかかる。日本人全員を乗せた。だが、なかなか離陸許可が出なかった。タイムリミットが刻々と近づく。ついに航空機はメへラバード空港を飛び立った。だがまだ安心することはできなかった。タイムリミット前とはいえ、いつ戦闘機からミサイルが飛んでくるか分からなかった。通常、民間の航空機は雲を避けて視界の良いところを飛ぶ。だがこの日は逆だった。なるべく雲の合間に隠れてジグザグに飛び、少しでも身を隠す必要があった。そして離陸してから2時間半後、機内にアリ機長のアナウンスが流れた。

「Welcome to Turkey! (ようこそトルコ共和国へ)」

この時搭乗していた邦人は215名。3月19日20時半のタイムリミット間際に、無事トルコ領空へと帰還した。

15年後の1990年。湾岸戦争開戦時にイラクのバグダッドで人質になっていた邦人を助けるために、アントニオ猪木氏がサダム・フセイン大統領と直接掛け合い、平和を訴えるイベントを提案した。その際にもフライトのチャーターを快諾してくれたのがトルコ航空だった。

さらに1999年8月7日。トルコを大地震が襲い、数え切れない人達が犠牲になった。あの時、命を賭けて救援に駆けつけてくれたトルコの人々に助けられた乗客や森永たちは立ち上がった。銀行マンに商社マン。普段はエリートと呼ばれる人達も、必死になって義捐金を集めた。それはやがて、大きな輪となって日本中に広がっていく。

彼らの姿を、今は安らかに眠る旧大島村民、山田寅次朗達も誇りに思っているだろう。

(文中敬称略)

トルコは、難しい歴史を持っている。伝統的に商売上手なこの国も、EU加盟、移民、キプロス、そしてクルド人の問題等抱える問題は少なくない。だが日本との心理的な距離はきわめて近い。

いい面も悪い面も。歴史を学び、歴史に学ぶことが重要ではないか。

(参考文献)「トルコの時代」
http://www.turkey.jp/2003/index.html

「在日トルコ大使館」
http://www.turkey.jp/jp/indexJP.htm

「クルドの独立、トルコの変身」(田中宇の国際ニュース解説)
http://tanakanews.com/070209kurd.htm

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

(歴史小話) コルチャック先生、愛の詩

1994年、我が日本国は一つの条約を批准した。「子供の権利条約」と呼ばれるこの条約は、1979年に欧州のポーランド政府が提唱し、東西冷戦崩壊前後の1989年に正式に国際連合で成立した。この条約の精神には、ある一人の教育者の魂が込められている。その教育者の名をヤヌシュ・コルチャックと言う。

豊かな家庭に生まれて

コルチャック先生は、ロシア帝国が支配するポーランド王国ワルシャワのユダヤ系の家庭に生まれた。父は弁護士。離婚法の権威だった。母もまた教養の高い女性だった。一般的に東欧のユダヤ人家庭は貧しかったが、父が弁護士であることから豊な家庭だった。コルチャック先生はワルシャワ大学医学部へ進学、その後ベルリン、パリ、ロンドンなど各国に留学した。



コルチャック先生は、子供の頃から医者になりたいと夢見ていた。当時ワルシャワにはワルシャワ慈善協会という組織があり、貧しい人々に慈善事業を行い、孤児院、病院、図書館、非合法の学校、職業訓練所などを運営していた。コルチャック先生はこの非合法の学校の教師として働くことにした。さらに彼が34歳の時、2つのホーム(孤児院)を作った。一つはユダヤ系の孤児達が住む「ドム・シェロット(孤児たちの家)」、もう一つがポーランド人の孤児たちが住む「ナシュ・ドム(僕達の家)」だった。このナシュ・ドムの教育方針は今日においても傾聴に値するものである。

「子供たちの人生は、子供たち自身の力で築きあげていかれるべきものである。それには、道徳的な強さと向上心が要求される。私達は細心の注意をもって、一歩一歩それを実行し、互いに協力しながら自分自身を育てていこう」

コルチャック先生の教育

今でもそう見られることが多いかもしれないが、1920年代の欧州では、子供とは未完成の大人だと見られるのが一般的だった。しかしコルチャック先生は、子供とは一つの小さな人間であり、その権利は正当に保証され、すべての子供の未来は約束されるべきものと考えていた。

2つのホームでは、その運営は基本的に子供達に任かされていた。世界初の子供新聞が発行され、子供による裁判が行われ、年長の子が年少の子の面倒を見るという教育が実践されていた。その結果、多くの子供達が自律的に物事を考え、問題の本質を捉え、どのように対処していったらよいのかを考えるようになっていった。

絶望の中で

1933年にドイツでヒトラー率いるナチス政権が誕生、ポーランドでも反ナチス暴動が次第に過激になっていった。1939年、ドイツ軍が突如としてポーランドへ侵攻した。第二次世界大戦の始まりである。ポーランド軍は完敗、首都ワルシャワはドイツ軍に占領されてしまう。ラジオからラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」が流れている時だった。

翌年、ワルシャワにユダヤ人の居住区が設けられる。いわゆる「ゲットー」である。コルチャック先生をはじめ、多くの子供達もこのゲットーの中に強制移住させられた。しかし、彼の協力者が比較的きれいな建物を用意してくれた。ナチスの手先による監視下にはあったものの、子供達はこれまで通りに子供新聞を発行し、子供裁判を行い、授業も行われていた。音楽祭や劇まで行われていた。しかしこの時、コルチャック先生は食べ物や医薬品の確保に心血を注いでいた。ほぼ全ての蓄財を賄賂に廻した。このお金を使えば、アメリカやパレスチナへ亡命することも可能だったかもしれない。しかし、コルチャック先生はその蓄財を子供たちのために使った。

さらにコルチャック先生は、医師として病弱な子供達に検診を行う傍ら、劣悪な環境下にあった孤児の乳児院にも暖かい手を差し伸べた。約200名の子供が檻のような部屋に閉じ込められ、食事も与えてもらえず、排泄物は垂れ流しだった。病気が蔓延していた。コルチャック先生は、常に絶望と背中合わせの中で子供達に接していた。いつの日か、この絶望が終わることを信じて。

天使の行進

ナチス政府は、1942年にユダヤ人の「最終解決」を決定した。「最終解決」とは、ユダヤ人を絶滅にすることだった。占領地、ポーランドにはいくつもの強制収容所が作られた。

その日は、暑い夏の日だった。コルチャック先生と200名の子供達は、ホームから強制退去を命ぜられた。この日のために、コルチャック先生とともにホームを運営してきたステファノ夫人は、子供達に真新しい服を用意していた。子供たちはこの服を着て、駅へ向って四列縦隊で歩いていく。一番前を歩く子供は、緑の色の旗を天高く掲げていた。この緑の旗は、希望を現すホームの旗だった。その次に女の子を抱えたコルチャック先生が歩く。その後を200人の子供が整然と続いた。取り乱す子はいなかったという。それを見た当時の人達は、まるで天使が行進していたように見えたと語っている。

天国へ

この時、コルチャック先生は長年の功績がナチス政府に認められ、特別に罪が許されていた。混乱した時代なので多くの証言が残っているが、その一つにこんな証言がある。

駅に着いたコルチャック先生と子供たち。あるドイツSS(親衛隊)の一人がコルチャック先生に向ってこう言った。「あなたは特別にこの列車に乗らなくていい」。コルチャック先生は「では子供たちは?」と聞いた。するとそのSSは「子供たちはダメだ。あなただけだ」と言った。コルチャック先生は毅然とした態度でこう応えた。

「あなたは間違っている。まず子供を!」


~~

(参考文献)
「決定版 コルチャック先生」
http://www.amazon.co.jp/%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E5%85%88%E7%94%9F-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/4582765408

日本ユニセフ 「コルチャック先生と子供の権利」
http://www.unicef.or.jp/kodomo/teacher/pdf/sp/sp_26.pdf

"Janusz Korczak Communication - Center"
http://korczak.com/Biography/kap-0.htm

"Parenting Advice from a Polish Holocaust Hero"
http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=7669479

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。