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(物語) 真のワンチーム

2019年11月2日、新横浜の夜空に金色のカップが高く掲げられた。ラクビーワールドカップ日本大会。決勝を制したのは南アフリカ代表「スプリングボクス」。カップを掲げたのは同代表初の黒人主将シヤ・コリシ選手。その背には栄光の背番号6番を掲げていた。彼はアパルトヘイト政策時代に作られた黒人居留区で生まれ、ラクビーにその人生を捧げてきた。物語は30年以上前に遡る。

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日本がバブル景気に浮かれていた1980年代になっても、南アフリカ共和国は「アパルトヘイト」と呼ばれる人種隔離政策を続けていた。アメリカなどでは既に人種差別政策を廃止しており、南アフリカに対して厳しい経済制裁を課していた。1980年代後半になると黒人達による暴動が多発するようになる。時の大統領デクラーク大統領は大きな決断を下す。それは、アパルトヘイトに反対して27年間にも渡って投獄されていたネルソン・マンデラさんを釈放することだった。

ネルソン・マンデラさんは、1918年7月18日、南アフリカの東ケープ州の農村に生まれた。26歳の時に反アパルトヘイトを掲げるアフリカ民族会議(ANC)に入党、その後南アフリカ初の黒人の法律事務所を設立した。しかし、裁判は常に黒人に不利だった。ANCは当初話し合いを重視する路線だったが、政府による虐殺事件・暴力事件が相次いだ。そこでマンデラさんも闘争路線に変更、国家反逆罪で終身刑を宣告されてしまう。

1964年から1982年まで18年もの月日をケープタウン沖ロベン島にあるポルスモア刑務所で過ごした。劣悪な環境の中、マンデラさんは体を弱めてしまう。しかし、自由と平等を求める精神に揺るぎはなかった。マンデラさんの釈放後の1991年についにアパルトヘイトが廃止、1994年には南アフリカ初の普通選挙が実施されマンデラさんは初の黒人大統領に就任する。

第8代大統領となったマンデラさんが腐心したのが民族の融和だ。アパルトヘイトは白人・黒人間の溝を深くしたが、黒人間でも派閥間の争いなど様々な対立があった。こうした対立を収め、全人種を融和させることが重要な課題だった。マンデラさんが目につけたのが、翌年1995年に南アフリカでワールドカップが開催されることが決まっていたラクビーだった。

ラクビー南アフリカ代表の愛称を「スプリングボクス(Springboks)」という。「ボカ」の短いニックネームでも知られる。 アフリカ大陸を軽やかに駆け巡る動物スプリングボックに由来し、100年以上もの歴史を誇る。長年、南アフリカではラクビーは白人のスポーツとされており、黒人など他人種には不人気だった。スプリングボクスはほぼ白人の選手で占められており、アパルトヘイトの象徴とされていた。普通、自国の代表が国際大会で戦う場合、国民は自国代表を応援し、勝った場合には当然喜ぶ。しかし南アフリカの場合、非白人はスプリングボクスの相手チームを応援し、スプリングボクスが敗れた時に喜ぶといった有様だった。

そこでマンデラさんは、至る所でこう説いて回った。「スプリングボクスは白人の象徴だったが、これからは南アフリカの象徴だ。我々のチームを愛してほしい」。また、スプリングボクスの選手達とも面会した。多くの選手が警戒していた。ところがマンデラさんは、選手たちに優しくこう語りかけた。「君たちは我々の誇りだ。全国民が応援する。どうか南アフリカ代表として行動して欲しい」。チームのメンバーの意識が少しづつ変わり始める。それまでラクビーを忌み嫌っていた非白人の子供たちにラクビー教室を開催することもあった。

マンデラさんはこんなスローガンを掲げた。

「One Team One Country」
(一つのチーム、一つの国家)

白人と黒人、黒人と黒人。アパルトヘイトによって長く分断された国家。マンデラさんは、そんな国家が一つになるよう、その願いをスプリングボクスとラクビーに託したのだろう。

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1995年5月25日、第3回ラグビーワールドカップ。スプリングボクス初陣の対戦相手は、優勝候補の強豪オーストラリア代表「ワラビーズ」。ケープタウンにあるニューランドスタジアムには多くの観客が押し寄せていた。試合前の下馬評ではスプリングボクスの苦戦が予想されていた。しかし、試合が始まるやスプリングボクスは激しく攻め立てる。重厚なディフェンスに加え、敵の隙を突いてドロップゴールを確実に決めていく。スプリングボクスは27対18で初戦のオーストラリア戦に勝利した。

続くルーマニア戦は21対8で撃破、カナダ戦は20対0で完封。南アフリカ十か熱狂に包まれていく。選手もファンも新しい国歌を歌い、ファンは新しい国旗を振って応援した。準々決勝のサモア戦でも42対14の大差で勝利、準決勝のフランス戦は大接戦の好試合。19対15の僅差で勝利した。

1995年6月24日。ヨハネスブルクのエリスパークで行われた第3回ラグビーワールドカップ決勝戦。スプリングボクスの最後の相手はニュージーランド代表「オールブラックス」。試合前に選手全員が伝統儀式「ハカ」を踊ることで有名だ。ユニフォームはその名が示す通り全身真っ黒。この決勝戦の開始前、マンデラさんはスプリングボクスのユニフォームを着て会場を訪れ、両チームの選手一人一人に声をかけて激励した。その背中には主将フランソワ選手と同じ背番号6番が掲げられていた。また、試合直前にはスタジアムの上空すれすれを1機のジャンボジェットがかすめて飛んで行った。その機体の下には「Go Bokke’ 」と大きく書かれていた。こうして最後の決戦の火蓋が落とされた。

試合は決勝戦の名に相応しい激闘だった。オールブラックスが点数を決めるとスプリングボクスもすぐに追いつく。伝統的にオールブラックスは素早いパス回しで敵を翻弄し、力強いスクラムでデイフェンスも強い。これに対し、スプリングボクスは体をぶつけてオールブラックスのスピードを止め、力負けしないスクラムと、間隙を突いて確実なドロップゴールを決めていった。勝負は後半になってもつかず、ワールドカップ三回目にして初の決勝延長戦に突入した。そしてついにスプリングボクスがリード、15対12の接戦を制して初出場初優勝の快挙をなし遂げた。表彰式でマンデラさんは主将フランソワ選手に優勝カップを手渡した。二人の背番号は同じ6番。南アフリカ中がお祭り騒ぎになったという。

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2013年12月5日、マンデラさんはヨハネスブルグの自宅で95年の人生を終えた。27年もの間投獄されても決して揺がなかったその信念、敵を許す慈悲の心、寛容さ、そして優しさ。マンデラさんが掲げた「One Team One Country」のスローガンは、強い信念と願いを見事に表している。


Springboks unite a nation: RWC 1995 final
https://www.youtube.com/watch?v=9Wh4MPGp68A

Rugby World Cup rewind: RWC 1995
https://www.rugbyworldcup.com/news/90026

The National Anthem Of South Africa (Best Performance)
https://www.youtube.com/watch?v=Dtg_KtjrIV8

ラグビーを超えた出来事」、南アのレジェンドもW杯制覇に感無量
https://www.afpbb.com/articles/-/3252881

ラグビーと南アフリカ (南アフリカ共和国観光局)
http://south-africa.jp/meetsouthafrica_lists/552/

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(物語) サンタクロースを追いかけて

1955年、米国コロラド州のコロラド・スプリングス市に本拠地を置くシアーズ ローバック社は全米一の売上を誇る小売店だった。

クリスマス商戦の一つだったのだろう、シアーズ ローバック社が子供向けにサンタクロースへの直通電話を開設した。その電話番号は新聞の広告にも掲載された。ところがとんでもない間違いで、その番号は米国航空防衛を担う中央防衛航空軍(CONAD)の司令部の司令官用直通電話だった。

その司令用電話に一本の電話がかっかてきた。応対したのはハリー・シャウプ大佐(当時)。シャウプ大佐は自分の名を名乗ったが相手は無言。シャウプ大佐は「もしもし、聞こえますか?」と続けた。この電話番号は米軍の中でも限定された人間しか知らない。一体誰からの電話なのか。当時、米国はソビエト連邦と対峙していた。スパイや偽の電話など、色々な可能性が考えられた。しかしその電話の声の主は意外だった。小さな女の子が震え声でこう質問してきた。

「あなたは本当にサンタクロースですか?」

シャウプ大佐は、一体誰なのかを問い詰めた。なぜ少女がこの電話番号を知っているのか。のちにシャウプ大佐は、あの時自分は無愛想でセンスがなかったと振り返っている。話を聞いていると、どうもその子は本当にここをサンタクロースの家だと勘違いしているようだった。そして本当にサンタクロースがこの世にいることを信じているようだった。シャウプ大佐は機転を利かせてこう応えた。

「軍隊のレーダーで調べたところ、どうやらサンタクロースは家のある北極から南へ向かった形跡がある」

その夜、サンタクロースを信じる子供から次々と電話がかかってきた。サンタクロースは今どこにいるのか、プレゼントは何か、そのほぼすべての電話に、シャウプ大佐は丁寧に応対したという。

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この話はすぐに全米中で話題になった。子供の夢を壊すまいと懸命に応対したハリー・シャウプ大佐に多くの人が賛辞を送った。そしてCONADの任務を受け継ぐ北米航空宇宙防衛司令部(North American Aerospace Defense Command)は、シャウプ大佐の行動に敬意を表し、毎年クリスマスになると、サンタクロースを追跡する作戦 "Red Big One"を展開するのが恒例行事となっている。

2018年12月24日午前2時1分(米国東海岸時間)、63年を迎えた今年もサンタクロース追跡大作戦が始まる。子供たちの夢を乗せて。


North American Aerospace Defense Command
http://www.norad.mil/

NORAD Tracks Santa
https://www.noradsanta.org/#section-village

NORAD Tracks Santa program kicks off for 2018
http://www.norad.mil/Newsroom/Press-Releases/Article/1701351/norad-tracks-santa-program-kicks-off-for-2018/

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(物語) 鷹の選択

YouTubeでちょtっと話題になった動画がある。「鷹の選択」という動画だ。
動物行動学者によると、現実の鷹はこの動画に出てくるような行動は取らず、70年どころか15年しか生きられないそうだ。
しかし、その内容はとても感慨深く、考えさせられるものだ。

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鷹は70年生きる。
しかし、40歳の時に大きな選択を迫られる。
そのまま死を待つか、厳しい挑戦をするか。
挑戦を選択した鷹は、自らの嘴を石で割り、新しい嘴を手に入れる。
そして全ての爪を剥ぎ取り、新しい爪を手に入れる。
さらに新しい爪で全ての羽を抜き取り、新しい羽を手に入れる。

こうして生まれ変わった鷹は再び大空へと舞い上がり、残りの30年を生きる。
その30年は、厳しい選択をした者だけが見ることのできる世界なのだ。

誰しもが成長することを願い、成長したいと願います。
変化を望んだ者だけが 昨日の自分よりも成長できるのです。

ですが、変化には不安や苦痛が待っているかもしれません。
ほんの少しの勇気と はじめの一歩が
あなたをその先の30年に導いてくれます

あなたは変化を望むことができます。
あなたは変化しないことを望むことができます

これから先の選択が
あなたとあなたの大切な人に
幸せがあることを願っています

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ちょうど40歳の私も、新しい挑戦を選んだ。
挑戦者だけが見ることのできる世界を見てみたい。

あの東日本大震災からちょうど5年。
新しい世界に踏み出そう!


鷹の選択
https://www.youtube.com/watch?v=H1-ciR--u3U

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(物語) ママへ

佐世保の少女が起こした事件には震撼させられた。そんなことをして天国のママが悲しまないとでも思うのだろうか。

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台湾のある家族の物語である。その家族にはお父さんとお母さんと10歳に満たない5人の子供がいた。お父さんは定職に就くことができず、アルバイトで生計を立てていた。家族の暮らしは厳しかったという。さらにお母さんの体の具合が悪くなり、病院に入院することになった。ますます家計は苦しくなり、5人の子供たちは3度の食事も満足にできなくなった。

ある日、お母さんのお見舞いに病院に来ていた子供たち。お腹を空かしているのを見かねた看護婦さんが、子供たちを外の定食屋さんに連れて行った。驚いた子供たちに看護婦さんは「何でも好きなものを注文して」と言った。子供たちが選んだのは「陽春麺」という日本でいうかけそば。一番値段の安いメニューだった。注文したそばが運ばれてくると子供たちは美味しそうに食べ始めた。しかし9歳になる一番の年上のお姉ちゃんが突然食べるのを止めて箸を置き、看護婦さんに向かってこう言った。

「この美味しいおそば、お母さんにも食べさせたいの。包んで持って帰ることはできますか?」

2人の妹たちも続けて食べるのを止めた。看護婦さんは「もう一杯頼むから安心して食べて」と子供たちに優しく言った。追加で注文した陽春麺は、看護婦さんと子供たちがお母さんの元へと大切に運んだ。

子供たちの行動に感動した看護婦さんは、何とか力になってあげたいと考えた。病院のスタッフに相談し、台湾を代表する新聞社、中央通信社にコンタクトすることができた。お腹を空かしながらも病気のお母さんを気遣う優しい子供たちがいる、何とか支援して欲しいと訴えた。すると、この話は台湾中に大きく広がり、支援の輪が広がっていく。約500万円ほどのお金が集まったという。お父さんは記者会見を開き、頂いたお金は地方自治体の教育機関に預けて子供たちのために大切に使います、そしてこれからは家族みんなで力をあわせて頑張るので、これ以上の支援は遠慮します、と話した。

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運命は時として残酷なものだ。お母さんの病気は末期の子宮頸がんで、既にガンは全身に転移していた。病状はますます悪くなっていく。ある日、お母さんは主治医の先生にもう一度だけ家へ帰ることを願い出る。主治医はその願いを許可した。

住み慣れた家で、家族は大事な時間を一緒に過ごした。その時、お父さんは「楽な生活をさせてあげられなくてごめん」と何度も謝ったという。お母さんは「本当に色々ありがとう」と繰り返し感謝の言葉を述べたという。子供たちもお母さんにありがとうと何度も言ったという。

家族が一緒に過ごす大事な場所。色々な思い出が詰まった家。その家を出る時、お母さんは家族のみんなとある一つの約束をした。

「また貧しい生活をしても構わない。生まれ変わった時も、またこの家族で、もう一度一緒に暮らしましょうね」

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2006年4月、お母さんは天国へと旅立っていった。その葬儀は質素なものだった。子供たちとお父さんは、今までのお母さんとの思い出と感謝の気持ちを込めた手紙をいっぱい書いて、お母さんの棺の中に入れた。お母さんが天国へ一人で行っても寂しくないように、と。

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(物語) これでいいのだ!!~赤塚不二夫と森田一義~

九州一の大都市、博多。一人の青年が、国鉄博多駅のホームに停車している夜行列車に乗り込もうとしていた。大きな夢と少しの不安を抱えながら、青年は列車に乗り込んだ。青年の名を、森田一義と言った。

第1章 満州

1946年、満州(現中国東北部)で敗戦を迎えた赤塚不二夫(本名 藤雄)さんは、日本本土へ引き揚げることになった。多くの引揚者がそうだったように、赤塚一家の引き揚げも凄惨だった。今と違って航空機が発達しているわけではない。港へ向かう列車は乗り切れない人で溢れていた。港へ着いても、日本本土へ向かう船にいつ乗れるかわからなかった。食料も衛生状態も悪かった。劣悪な環境下で妹は命を落とした。個人の力ではどうしようもない事がある。ようやく満州の土地を離れた赤塚さんは、こうした経験を通して人生観を形成していく。

第2章 トキワ荘

満州から引き揚げた赤塚さんは、母の実家である奈良県の大和郡山市に住み始めた。そんな頃、当時人気を博していた手塚治虫さんの「ロスト・ワールド」を手にした。感動が止まらなかったという。その後遅れて帰国した父の実家のある新潟県へ移り住んだ。金銭的な理由から高校進学は断念、絵を描くことが好きだった赤塚さんは、映画看板の制作会社に就職した。同時に、学童社から発行されていた漫画雑誌「漫画少年」へ投稿を始めた。

1953年、18歳になった赤塚さんは上京を決意する。東京の江戸川にある化学工場で働きながら「漫画少年」への投稿を続けた。そして、人気漫画家の石森章太郎さんの目に留まる。3年後に「嵐をこえて」で漫画家としてデビューを飾った。その後も赤塚さんはしばらく石森さんのアシスタントとして働き、手塚治虫さんや寺田ヒロオさん、藤子不二雄(藤本さん、安孫子さん)といった当時の名漫画家が多く住んでいた豊島区のトキワ荘に移り住んだ。

1961年、赤塚さんは思い出の詰まったトキワ荘を後にし、アシスタントだった登茂子さんと結婚する。そして翌年、週刊少年サンデーで「おそ松くん」を、りぼんで「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始した。この二つの作品はたちまち大人気になった。1965年には長女のりえ子さんが生まれた。そして1967年「天才バカボン」の連載が始まった。

漫画家としては珍しいことだったが、女優黒柳徹子さんとテレビ番組の司会を担当した。多彩な交流が始まったのもこの頃である。その中にジャズピアニストとして名高い山下洋輔さんがいた。この山下さんを通して、あの青年が赤塚さんに紹介されることになる。

第3章 博多

1972年、山下さんは福岡でのジャズライブを終えた。当時のツアーというのは相部屋が基本で、山下さんたちはライブ後のホテルでメンバーと酒を飲んで、どんちゃん騒ぎをするのが恒例行事となっていた。メンバーの中村誠一さんがゴミ箱を頭に被って、虚無僧の格好をして歌って踊り始めた。この時、九州で働いていた森田さんは、同じホテルにいる大学時代の先輩である渡辺貞夫さんを訪ねていた。帰り際、森田さんは廊下まで聞こえる山下さん達のどんちゃん騒ぎに足を止めた。よく見るとドアの鍵は開いている。森田さんは部屋の中へと入っていく。

森田さんが部屋の中に入ると、中村さん達がゴミ箱で虚無僧の格好をしていた。すると森田さんはそのゴミ箱を取り上げ、自ら踊り歌い始めた。中村さんは得意芸としていたインチキな韓国語で森田さんに文句を言った。すると森田さんは3倍くらい長く、しかも上手なインチキ韓国語で言い返した。山下さんや中村さん達はその見事なインチキぶりに驚き、すぐに仲良くなった。その時の様子を山下さんはこう振り返る。

「今思え返せば、みんなジャズマンなんだよね。ジャズの世界は飛び入りが全然OK。うまい奴はさらにOK。でもヘタクソだと爪弾きにされちゃう。タモリもジャズ好きだったから、意気が合ったんだよね」


第4章 新宿

東京に帰った山下さんは、当時新宿にあった「ジャックの豆の木」というバーで、仲間達に森田さんのことを話した。じゃあ、そいつを呼んでみようということになった。そして1975年、森田さんは夜行の寝台列車に乗って博多から東京へ呼び寄せられる。森田さんは山下さん達に芸を見せ、たちまち大反響を呼ぶ。その中に赤塚さんがいた。赤塚さんは森田さんに歩み寄り、こう言った。

「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ」

二人の出会いはこんな感じで始まった。森田さんは赤塚さんのマンションに居候することになった。森田さんは赤塚先生が幾つもマンションを持っていて、ここはその一つで空いているものだと思っていたらしい。クローゼットにある服は高級品、ブランデーも高級品。森田さんはそれらを勝手に使った。ところが赤塚さんには他にマンションなどなく、事務所のロッカーを倒してその上に布団を敷いて寝ていた。

森田さんは本名をひっくり返した芸名を考え「タモリ」と名乗るようになった。赤塚さんが司会を努める生放送番組に出演した森田さんは、インチキ牧師や言葉などのパフォーマンスを演じた。同じく司会をしていた黒柳徹子さんはその芸の見事さに驚き、森田さんの売り込みに協力するようになった。

新宿二丁目にあった「ひとみ寿司」、赤塚さんの事務所や自宅で、赤塚さん、森田さん、山下さんたちは親交を深めていった。寿司で将棋をしてみたり、銀球鉄砲で打合い合戦をしてみたり、伊東の「ハトヤ」でライブをやったらどうなるかという設定でハトヤダンサーズと歌を作ったりした。

「人を笑わせることが大好き」
「馬鹿なことを真剣にまじめやる」

赤塚さんはそんな人生を地で行った。森田さんだけではなく実に様々な人を受け入れていった。地位や名誉、学歴や家柄で人を区別することはなかった。人を信用するあまり、時には詐欺にあってしまったこともあった。しかし、赤塚さんの口から決して非難するような言葉はなかった。いつもお酒を片手にニコニコ笑って、人の話を聞いて、安らぎを与え続けた。一方で、既存のおかしな考え方や古い因習には果敢に挑戦することをも忘れなかった。山下さんは、こう語る。

「これでいいのだ」って言葉について、いつも僕は強く言っている。何もしない奴が現状維持のために「これでいいのだ」って言っちゃいけない。古い考え方をぶっ壊して、必死に新しい価値を創造して、駆けずり回って、くたくたになって、それで最後に語る言葉なんだ」

森田さんはラジオ、テレビで大人気を博し、北野たけしさん、明石家さんまさんと並び称される存在になっていく。しかし、赤塚さんと森田さんの友情に変わりはなかった。

一方、赤塚さんの飲酒量は増えていき、アルコール依存症と診断されてしまう。1990年代に食道がんが見つかっても、お酒をやめることができなかった。赤塚さんの元から離れていく人もいた。2000年に硬膜下血腫に、そして2002年には脳内出血に倒れてしまう。それからの赤塚さんの意識は、ずっと不確かなものだったという。

6年もの闘病生活。人を笑わせることにかけた人生。失わなかった前向きさ。
2008年8月2日午後4時55分、赤塚さんは、還らぬ人となった。

赤塚さんの長女、りえ子さんはこう振り返る。

「父の言葉で印象に残っているのは「もっと真面目にふざけなさいよ」「人生、最後に帳尻あってりゃなにやったっていいんだよ」という言葉です。何事も真剣でした。今残っているのは莫大な数の原稿と多くの変な写真と沢山の楽しい思い出です。あと、セーラー服の夏服と冬服ですね(笑)」

「母が逝き、後を追うように3日後に父も逝きました。どうして、って生きる気力がなくなっちゃたんです。通夜の前、父の遺体が安置されている前に赤塚不二夫全集という雑誌がありました。その中の「鉄腕アトムなのだ」という作品を見て私はゲラゲラ笑ってしまいました。こんなもの書いちゃっていいの、って。でも笑うことで私は底を蹴って水面に浮かび上がるような気がしました。これがパパのやりたかったこと、どんな時でも笑うことを忘れちゃいけないってことなのね、とつくづく思いました」


最終章 宝仙寺

森田さんは、これまで友人の死に際してもコメントを発表することはなかった。仕事とプライベートを完全に切り分ける人だった。しかし、赤塚さんの訃報を聞き、所属事務所を通してマスコミ各社に異例のコメントを発表した。日本中が、北京オリンピックの開幕を待っている時のことだった。

5日後、東京中野区にある宝仙寺。人懐っこい顔をした赤塚さんの遺影の前に、森田さんは立った。生涯で初めての弔辞。その手に握られていた弔辞文には、一切何の文字も書かれていなかった。森田一義が放つ、一世一代のギャグ。その最高のギャグに、最高の感謝の気持ちをこめて。森田さんは弔辞を読み上げ始めた。

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「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに本当に残念です。我々の世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

10代の終わりから、我々の青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから私のマンションにいろ」と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私にとって金言として、心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのために騙されたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃんの葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のとき、たこちゃんの額をピシャリと叩いては、「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流していました。あなたは、ギャグによって物事を無化していったのです。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは、見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと、思うばかりの楽しい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

あなたは今、この会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。

私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかし今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました」

7分58秒にも及ぶ弔辞。その最後を、森田さんはこう結んだ。

「私も、あなたの数多くの作品の一つです」

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タモリさん、32年間「笑っていいとも!」の司会、お疲れ様でした。

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